社会革命党/エスエル
ロシアのナロードニキの流れを汲む革命政党。ロシア革命では右派のケレンスキーが臨時政府首相となったが十月革命で倒された。左派はボリシェヴィキに協力したが、その独裁下では排除され、衰退した。
社会革命党はロシア語の頭文字をとってエス=エルと略称される。ナロードニキの流れをくみ革命運動家が1901年に結成した。土地私有制の廃止、均分制の実施などを掲げ、主として小農民の支持を受けた。戦術としてはテロリズムによる専制政府の打倒をめざす直接行動を重視した。同じ革命政党であるが、路線の違いから、ボリシェヴィキとも鋭く対立した。指導者の一人がサヴィンコフ(『蒼白き馬』の作者ロープシン)で、1904年には内相プレーヴェを暗殺した。
1918年1月、ロシア最初の普通選挙で議員を選んで開催された憲法制定議会では社会革命党として約40%の支持を得て第一党となった。社会革命党はナロードニキの流れをくみ、農村を基盤としており、土地の平等な分配を主張していたので、その支持を広く受けていたからであった。レーニンは議会制民主主義は革命にとって有害であると考え、ボリシェヴィキを動員して憲法制定議会を解散させ、ボリシェヴィキ独裁体制を樹立した。
ボリシェヴィキは共産党と改称し、一党独裁体制を固め、新経済政策(ネップ)への転換を機に、1922年にレーニンを狙ったテロを計画したということを理由に社会革命党は非合法とされ、党としての活動は不可能となって消滅した。
第2次ロシア革命
1917年の第2次ロシア革命が始まり、まず二月革命でツァーリ専制政府が倒され、臨時政府とソヴィエトの二重権力の状態となった。各地のソヴィエトを結束した第1回全ロシア=ソヴィエト会議が招集されると、エスエルは代議員の中の285人を占め、メンシェヴィキの248人、ボリシェヴィキの105名よりも多く、最大勢力であった。ケレンスキー政権
臨時政府が行き詰まると、臨時政府に加わって法相となっていた社会革命党右派のケレンスキーが1917年8月(旧暦7月)に首相となっった。ケレンスキー内閣はブルジョワ勢力と妥協し、また連合国の支援を失うことを恐れてドイツとの戦争を継続した。即時停戦を願う民衆は次第にボリシェヴィキ支持に転換した。そのためケレンスキー内閣はボリシェヴィキとの対立を深めた。ボリシェヴィキの指導者レーニンに対してはドイツのスパイであるという嫌疑をかけて逮捕しようとしたため、レーニンはフィンランドに逃れた。しかし、その後ケレンスキー政権に対してコルニーロフ将軍が指揮する軍部の反乱が起きると、それを抑えることができず、ペトログラードではボリシェヴィキが勢力を増し、ついに十月革命が勃発する。臨時政府は倒され、ケレンスキーも亡命した。ボリシェヴィキ独裁の成立
十月革命の際に開催された第2回全ロシア=ソヴィエト会議ではボリシェヴィキが多数を占めたが社会革命党左派(左翼エスエルと言われる)もそれに次ぐ代議員を送った。左翼エスエルはボリシェヴィキに協力して、ソヴィエト政権を支えた。特にボリシェヴィキの基盤は工場労働者であったので、ソヴィエト政権の農業政策は農民を基盤とした左翼エスエルの政策に負うことが大きかった。1918年1月、ロシア最初の普通選挙で議員を選んで開催された憲法制定議会では社会革命党として約40%の支持を得て第一党となった。社会革命党はナロードニキの流れをくみ、農村を基盤としており、土地の平等な分配を主張していたので、その支持を広く受けていたからであった。レーニンは議会制民主主義は革命にとって有害であると考え、ボリシェヴィキを動員して憲法制定議会を解散させ、ボリシェヴィキ独裁体制を樹立した。
左翼エスエル
左翼エスエルはなおボリシェヴィキに協力していたが、両派の提携は長く続かなかった。まずレーニンは戦争の終結を最優先してブレスト=リトフスク条約によってドイツとの講和を実現したが、左翼エスエルは帝国主義との妥協であるとして反対し、戦争の継続を主張した。さらに内戦と干渉戦争との戦いを勝ち抜くためにボリシェヴィキ政権が戦時共産主義を打ち出し、農民に対する強制的穀物徴発を開始すると、その対立は決定的となり、左翼エスエルは政権から離れ、テロ活動に戻った。1918年8月には左翼エスエルの女性テロリストがレーニン暗殺を試み、失敗するという事件が起こり、それを機にチェカによる激しい報復と弾圧がおこなわれるようになった。ボリシェヴィキは共産党と改称し、一党独裁体制を固め、新経済政策(ネップ)への転換を機に、1922年にレーニンを狙ったテロを計画したということを理由に社会革命党は非合法とされ、党としての活動は不可能となって消滅した。