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ボリシェヴィキ独裁/プロレタリア独裁

1918年1月、レーニンが憲法制定会議を解散させ、ボリシェヴィキ一党独裁体制を樹立した。

 第2次ロシア革命の過程で生まれた革命党派による一党独裁体制。レーニンは反革命勢力が残存する段階においては、革命派が労働者大衆(プロレタリア)の階級的利益を守るために、独裁体制が必要であると主張し、1918年1月にボリシェヴィキが権力を握ると、ブルジョワ的議会制民主主義を否定し、ソヴィエトを基礎とした国家機構をつくりあげた。その後共産党(ボリシェヴィキが改称)が国家機構の上位に立って指導的立場をとり、他の政党の存在を認めない一党独裁体制をつくりあげた。プロレタリアの階級保護のための独裁体制であるので「プロレタリア独裁」とも言われる。

議会政治の否定とプロレタリア独裁

 革命前から予定されていた憲法制定議会が、ロシア初めての普通選挙によって議員が選出され、1918年の1月に開催された。この段階ではソヴィエトに参加していた様々な政党が候補者を立てていたが、当選者は社会革命党(エスエル)が第一党であり、ボリシェヴィキは第2党にとどまった。
 憲法制定議会でソヴィエトが提出した労働者人民と被抑圧人民の権利宣言は否決された。ボリシェヴィキは多数を占めることが出来ず、社会革命党(エスエル)が反対したためであった。ボリシェヴィキの指導者レーニンはこの事態をソヴィエト政権の危機ととらえ、会議休憩中に全ロシア=ソヴィエト会議の名で議場を封鎖、解散させた。レーニンは、ソヴィエトをブルジョア民主主義の議会制度より高度な政治形態であると考えていたが、ここで憲法制定議会が解散させられてボリシェヴィキ一党独裁政権が成立し、これ以後、ソ連解体までロシアでは選挙と議会制度は封印されることとなる。ここで排除された党派は、各地に反革命政権を樹立、革命政府との激しい内戦に突入する。ボリシェヴィキ政権はこの内戦と外国軍の干渉から革命を防衛するために、戦時共産主義の体制を強化していく。
 ただし、この段階ですぐにボリシェヴィキ一党独裁が成立したのではなく、政権にはエスエル左派(左翼エスエル)が参加していた。これらの党派が政権から完全に排除されるのは1921年の新経済政策(NEP)期からである。

レーニンの『国家と革命』

 レーニンは革命が進行して社会主義社会を実現させ、将来的には抑圧機構としての国家を消滅させるという見通しを立て、プロレタリア独裁(ボリシェヴィキ独裁)は当分の間の過渡的措置として必要であると主張した。レーニンは、マルクスとエンゲルスが、1848年革命から1871年のパリ=コミューンに至るフランスの革命運動の中で築いていった革命理論をもとに、議会制度とはブルジョワがプロレタリアを抑圧するための機関にすぎないと断定し、メンシェヴィキやエスエル右派がなおも議会政治に幻想を抱いているとして激しく批判した。そして議会政治に代わる国家権力のあり方として、ソヴィエトへの権力集中を主張した。その際に歴史の前例としてあげられたのが、パリ=コミューンであった。
 ソヴィエトも代議制である点では議会に似ているが、立法権だけではなく行政も同時に行う機関であり、労働者=プロレタリアが主権者となる機関であると位置づけた。一方で、そのような国家機関を否定するプルードンなどの無政府主義(アナーキズム)に対しても厳しく批判した。このレーニンの革命理論は、1918年1月の憲法制定議会閉鎖で実行に移され、ボリシェヴィキ独裁が現実のものとなった。このボリシェヴィズムは西欧の議会政治を最善の政治形態と考えていた当時の人々を驚かせ、また恐怖に陥れた。
 レーニンはこのボリシェヴィキ独裁を社会主義社会に移行し、プロレタリアートに対する抑圧が無くれば国家権力とともに消滅するとの見通しを示していたが、その後の現実はそうはならず、ソ連は抑圧体制化してしまい、20世紀末に崩壊してしまった。このような段階でもう一度レーニンがなぜボリシェヴィキ独裁=プロレタリア独裁を志向したのか、それはどこに無理があったのか、考えてみる価値がある。この時のレーニンの思想を彼自身が1917~18年の革命の最中に表明したのが『国家と革命』である。<レーニン/角田安正訳『国家と革命』1917 講談社学術文庫版 2011刊>
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レーニン/角田安正訳
『国家と革命』1917
講談社学術文庫版 2011刊