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1932年選挙(ドイツ)

1932年7月、ドイツ(ヴァイマル共和国)の総選挙で、ヒトラーの率いるナチ党が国会議席の第一党となった。それによって1933年1月、ヒトラー内閣が成立、ナチスが政権を獲得した。

ナチ党の議会進出

 ドイツ共和国(通称ヴァイマル共和国)の国会における国民(国家)社会主義ドイツ労働者党(ナチ党)の議席数は、1928年には12(399議席中。第一党は社会民主党で153)であったが、世界恐慌の最中の1930年選挙で、一挙に107に増大した(第一党はまだ社会民主党で143)。そして1932年7月の選挙で、230議席を占めついに第一党となった(第2党の社会民主党は133)。同年11月選挙では196に減ったが、第一党は維持した。その結果、1933年1月、ヒンデンブルクは、ナチ党党首のヒトラーを首相に任命し、ここにヒトラー内閣が成立することとなった。
  政権を獲得したヒトラーは、議会における絶対多数を目指し、3月5日に再度の選挙を実施することにした。そこで単独過半数を得るためには敵対する政党に打撃を与えることが必要と意図したのであろう。1933年2月27日に発生した国会議事堂放火事件を共産党の犯行としてでっち上げ、翌日には大統領緊急令を出し、ヴァイマル憲法で保障された基本的人権を緊急事態を口実として停止した。その上で3月5日の選挙を実施したが、ナチ党は288議席(得票率43.9%)にとどまりヒトラーが期待した単独過半数は実現できなかった。社会民主党は120、共産党は前回89からは減ったものの81を確保、他に中央党74、国家国民党52など)となった。<数字は山本英行『ナチズムの時代』1998 世界史リブレット49 山川出版社 p.21>
 新たに招集された議会でヒトラーは1933年3月24日全権委任法を成立させた。中央党が賛成に回り、出席できた社会民主党議員は反対したが、その大部分と共産党議員はすでに逮捕されて出席できなかった(議員の不逮捕特権さえ奪われていた)ために賛成多数となったのだった。それは議会の立法権を制限して内閣に対し無制限の立法権を賦与するという、三権分離・民主政治の原理を否定することであり、実施的なナチ党一党支配が成立、そのもとで全ブルジョワ政党は自発的に解散し、6月に社会民主党、7月に共産党が禁止され、ドイツの議会政治は解体された。

ヒトラー選挙の成功

 なぜナチ党は1930年代に議席数を急増させたか。ナチ党は1920年代までは、ユダヤ人攻撃(ユダヤ人は世界陰謀を企み、資本家や労働運動をあやつっている、そのねらいは共産主義革命だ、などといった根拠のない宣伝)の比重が大きく、その支持基盤は「プロテスタントの農民、手工業者、サラリーマンなど」の中間階級に限られていた。しかし、1930年代の得票率の急増はそれだけでは説明がつかない。ポスターの変化で見ると、ユダヤ人攻撃は影を潜め、もっぱらヒトラーとナチ党による強力な指導力によって国家の危急を救えるという宣伝「我らが最後の望み、ヒトラー」などが前面に出てくる。これが議会政治のまどろこっさや、党利党略に明け暮れる従来の政党政治に対するいらだちといった大衆の気分に受け入れられたのではないだろうか。現代の日本でも聞かれる「決められる政治へ!」といった呼びかけに危うさを感じるのはこのことがあるからである。1930年代の世界恐慌後の社会不安とそれを解決できない議会政治への不満が、革命の恐怖への反動と共に、中間階級を超えた幅広い国民の支持がナチ党に集まった背景であった。
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書籍案内

山本英行
『ナチズムの時代』
世界史リブレット49
1998 山川出版社