ドイツ社会民主党
ドイツ社会主義労働者党が1890年に合法化されて改称した。社会主義政党として勢力を増大させ第2インターナショナルの中心となった。1912年には第一党となったが、第一次世界大戦に反対せず、戦争末期に分裂した。大戦後、ヴァイマル憲法下で政権を担当したが、30年代に入りナチスが台頭、ナチス政権が成立すると非合法に追い込まれた。
ドイツの社会主義運動は、1848年にマルクスとエンゲルスが『共産党宣言』を発表して理論的な道筋をつけ、ベーベルやリープクネヒト(父)に継承された。彼らは1869年にドイツ社会民主労働者党(アイゼナハ派)を創設した。それとはべつに労働運動を基盤とした社会改良を目指すラサールの指導する運動があったが、両者は1875年に合同してドイツ社会主義労働者党 を結成した。
ビスマルクの社会主義者鎮圧法 しかし、普仏戦争のプロイセンの勝利によって、1871年1月に成立したドイツ帝国は、その支持勢力である大土地所有者(ユンカー)と新興の重工業資本家層が社会主義思想を警戒したことを受けて、宰相ビスマルクが主導して1878年に社会主義者鎮圧法が制定されたことによって非合法とされ、それ以後は地下活動を余儀なくされた。ドイツ社会主義労働者党 は合法化された。そのとき同党は「ドイツ社会民主党」と改称した。ただちに急速に党勢を増し、その年の総選挙では142万票を獲得、35議席を得た。1891年にはエルフルト綱領 を採択して、マルクス主義を党の基本的理念として掲げ、社会主義革命を目指すことを明確にした。
躍進と苦慮 社会主義者鎮圧法が廃止されたことで、社会民主党は大衆的な支持を獲得し、ドイツの産業革命によって生まれた労働者の組合運動や権利獲得に努めて急速に支持を拡大して行き、1912年には425万票を獲得、帝国議会の議席110でドイツの第一党となった。しかし、ドイツの議会は議院内閣制でないために、政治権力を握ることはできず、ヴィルヘルム2世の世界政策を推進して国民の人気を得る路線を阻止することはできず、列強が帝国主義の世界的な対立に狂奔する中で路線を巡って苦慮していくこととなった。、
第一次世界大戦が起こると祖国防衛の立場から戦争に協力した。大戦末期の1916年には左派(急進派)のスパルタクス団(後のドイツ共産党)が分離、1917年には反戦派が分裂して独立社会民主党を結成した。
しかし、独立社会民主党の左派とスパルタクス団は1918年12月30日にドイツ共産党を結成、さらに一気に社会主義革命を目指して1919年1月5日に武装蜂起した。エーベルトの社会民主党は革命の進展を嫌い、旧軍部と結んで革命を弾圧、1月15日にカール=リープクネヒトやローザ=ルクセンブルクらの指導者を逮捕・殺害し、沈静化を図った。こうしてドイツ革命は社会主義革命に転化することなく、立憲君主政体からブルジョワ共和制への移行にとどまることとなった。
ヴァイマル共和国では人民党、中央党との連立を組んで困難な戦後復興に取り組み、人民党のシュトレーゼマンの協調外交に協力した。しかしナチスが台頭すると次第に押されて抑えられるようになり、1933年には解散させられた。 → 第二次世界大戦後のドイツ社会民主党>
ビスマルクの社会主義者鎮圧法 しかし、普仏戦争のプロイセンの勝利によって、1871年1月に成立したドイツ帝国は、その支持勢力である大土地所有者(ユンカー)と新興の重工業資本家層が社会主義思想を警戒したことを受けて、宰相ビスマルクが主導して1878年に社会主義者鎮圧法が制定されたことによって非合法とされ、それ以後は地下活動を余儀なくされた。
社会民主党への改称
ヴィルヘルム2世の親政開始に伴い、1890年、ビスマルクが罷免されて社会主義者鎮圧法が撤廃されたことによって躍進と苦慮 社会主義者鎮圧法が廃止されたことで、社会民主党は大衆的な支持を獲得し、ドイツの産業革命によって生まれた労働者の組合運動や権利獲得に努めて急速に支持を拡大して行き、1912年には425万票を獲得、帝国議会の議席110でドイツの第一党となった。しかし、ドイツの議会は議院内閣制でないために、政治権力を握ることはできず、ヴィルヘルム2世の世界政策を推進して国民の人気を得る路線を阻止することはできず、列強が帝国主義の世界的な対立に狂奔する中で路線を巡って苦慮していくこととなった。、
修正主義の台頭
しかし、「革命か改良か」をめぐって内部対立が激しくなり、右派のベルンシュタインは暴力革命を否定して社会改良を主張し、中間派のベーベル、カウツキーは社会革命とともに社会改良の必要も認めた。最左派のローザ=ルクセンブルク(ポーランド生まれの女性革命家)は一貫した階級闘争と革命路線を主張した。ベルンシュタイン等の主張は「修正主義」と言われたが、次第に党内の主力を占めるようになっていく。第一次世界大戦を阻止できず
国際的には1889年に設立された第2インターナショナルの中心となって、各国の社会主義政党、労働組合運動と連携し、国際社会主義運動を進めた。1912年からはドイツ帝国議会の第一党となり、1913年以降はエーベルトの指導のもと、さらに党勢を拡大したが、皇帝ヴィルヘルム2世の帝国主義政策を阻止することはできず、さらに第一次世界大戦の勃発を阻止することはできなかった。第一次世界大戦が起こると祖国防衛の立場から戦争に協力した。大戦末期の1916年には左派(急進派)のスパルタクス団(後のドイツ共産党)が分離、1917年には反戦派が分裂して独立社会民主党を結成した。
ドイツ革命の蜂起を弾圧
1918年11月3日、キール軍港の水兵反乱からドイツ革命が勃発すると、エーベルトを首班とする内閣を組織してただちにドイツ共和国の成立を宣言した。皇帝ヴィルヘルム2世は亡命して戦争は終わった。しかし、独立社会民主党の左派とスパルタクス団は1918年12月30日にドイツ共産党を結成、さらに一気に社会主義革命を目指して1919年1月5日に武装蜂起した。エーベルトの社会民主党は革命の進展を嫌い、旧軍部と結んで革命を弾圧、1月15日にカール=リープクネヒトやローザ=ルクセンブルクらの指導者を逮捕・殺害し、沈静化を図った。こうしてドイツ革命は社会主義革命に転化することなく、立憲君主政体からブルジョワ共和制への移行にとどまることとなった。
ヴァイマル共和国
終戦翌年の1919年にヴァイマルに召集された議会で新たなヴァイマル憲法が制定され、ヴァイマル共和国が成立すると、社会民主党はその政権を支える中心勢力となり、エーベルトは大統領に就任した。ヴァイマル共和国では人民党、中央党との連立を組んで困難な戦後復興に取り組み、人民党のシュトレーゼマンの協調外交に協力した。しかしナチスが台頭すると次第に押されて抑えられるようになり、1933年には解散させられた。 → 第二次世界大戦後のドイツ社会民主党>
ドイツ社会民主党(戦後~現代)
第二次世界大戦後活動を再開したが、分断国家となったため、東西の社会民主党は別個の道を歩んだ。西ドイツではマルクス主義から脱却して現実路線を取り、ブラントは東方政策を推進した。東ドイツでは共産党と合同して社会主義統一党となり、社会主義建設に向かった。
ドイツ社会民主党はナチスドイツ時代には非合法とされ、解散させられたが、戦後に復活した。
東西ドイツが分断されると、西ドイツでは保守政党のキリスト教民主同盟(CDU)と対抗しながら現実路線をとり、1959年にはバート=ゴーデスベルク(保養地として有名なところ)での党大会でマルクス主義と絶縁を宣言したゴーデスベルク綱領を定め、階級政党から国民政党への転換を図った。1969年にはブラント党首が自由民主党との連立内閣を組織し政権を担当した。ブラントは東方外交を掲げ、戦後ドイツの外交を転換させ、その後も社会民主党はシュミット、シュレーダーなど有能な政治家を輩出した。
東ドイツではドイツ共産党と合同して社会主義統一党(SED)となった。
現在の統一ドイツでもドイツ社会民主党(略称SPD)はキリスト教民主同盟(CDU)とともに二大政党政治を展開している。
東西ドイツが分断されると、西ドイツでは保守政党のキリスト教民主同盟(CDU)と対抗しながら現実路線をとり、1959年にはバート=ゴーデスベルク(保養地として有名なところ)での党大会でマルクス主義と絶縁を宣言したゴーデスベルク綱領を定め、階級政党から国民政党への転換を図った。1969年にはブラント党首が自由民主党との連立内閣を組織し政権を担当した。ブラントは東方外交を掲げ、戦後ドイツの外交を転換させ、その後も社会民主党はシュミット、シュレーダーなど有能な政治家を輩出した。
東ドイツではドイツ共産党と合同して社会主義統一党(SED)となった。
現在の統一ドイツでもドイツ社会民主党(略称SPD)はキリスト教民主同盟(CDU)とともに二大政党政治を展開している。