ヴァイマル共和国/ワイマール共和国
1919~33年までのドイツ共和国の通称。ヴァイマル憲法下の国家を言う。第一次世界大戦の敗戦国としてヴェルサイユ体制を受容するという苦境を克服、国際社会への復帰を果たしたが、世界恐慌でさらに苦境に立つ中で反ヴェルサイユ体制を主張するヒトラーに指導されたナチスが台頭、1933年に成立したナチス政権によって憲法、議会制度、言論の自由などが奪われ、崩壊した。
1919年7月13日、ヴァイマルで開催された国民議会で新たなドイツ憲法として制定された憲法はヴァイマル憲法と言われた。この憲法の下で、ほぼ1933年のヒトラー政権の成立までの約14年間のドイツ共和国を、特にヴァイマル共和国という。ワイマール共和国とも表記。ヴァイマル憲法の下で国民の直接選挙で選ばれる大統領制、議会制が実現し、ドイツ帝国の古い体制を克服しながら、第一次世界大戦の敗戦国としてヴェルサイユ条約を遵守し、領土・植民地の減少、軍備の大幅削減、そして過重な賠償金の支払いという重い課題を背負うこととなった。選挙によって選ばれた社会民主党を中心とした連立内閣が続いた。
新憲法にしたがって実施された選挙で社会民主党のエーベルトが臨時大統領に選出された。社会民主党はドイツ第二帝国が崩壊した後、社会主義革命を目指したスパルタクス団の蜂起を抑え穏健な社会改良政策を進めた。しかし、ヴェルサイユ体制での賠償金など過酷な負担を強いられ、激しいインフレで経済は疲弊し、左からは労働者の不満を吸収したドイツ共産党の進出と、右からは反ヴェルサイユ体制を唱える国家主義運動であるナチズムが台頭し、政治・社会の動揺が続いた。一面では実現された平和の中で、人々はヴァイマル文化と言われる生き生きとした文化を生み出した時代でもある。
新憲法にしたがって実施された選挙で社会民主党のエーベルトが臨時大統領に選出された。社会民主党はドイツ第二帝国が崩壊した後、社会主義革命を目指したスパルタクス団の蜂起を抑え穏健な社会改良政策を進めた。しかし、ヴェルサイユ体制での賠償金など過酷な負担を強いられ、激しいインフレで経済は疲弊し、左からは労働者の不満を吸収したドイツ共産党の進出と、右からは反ヴェルサイユ体制を唱える国家主義運動であるナチズムが台頭し、政治・社会の動揺が続いた。一面では実現された平和の中で、人々はヴァイマル文化と言われる生き生きとした文化を生み出した時代でもある。
ヴァイマル共和国の時期
ヴァイマル共和国はわずか14年しか存続しなかったが、次の三つの時期に区別することができる。- 1919年~1924年 インフレをを背景に、右と左からの一揆、また主に右からの数多くの政治的暗殺があった。1920年3月には帝政復活を目論む右派が右翼政治家カップを担いで武装蜂起しベルリンを占拠するというカップ一揆が起こった。そのため政府は一時ドレスデン、さらにシュトゥッツガルトに逃れるという事態となったが、国防軍が同調しなかったことと労働者がゼネストでクーデタ反対に起ちあがったためカップは亡命して政権奪取は失敗した。1922年6月には賠償金支払いに応じようとした外相ラーテナウが暗殺されるという事件がおこった。
それでも大統領エーベルトのもとでシュトレーゼマンは首相や外相を務めて一応の安定を実現した。1922年4月にはヨーロッパ経済復興に関するジェノヴァ会議にも出席、ソヴィエト・ロシアとはラパロ条約に調印し、国際社会に復帰した。1923年1月には賠償金不払いを口実としたフランスとベルギーがルール占領を強行、それに対して「消極的抵抗」を行い、ゼネスト状態となったため生産はストップ、急激なインフレとなった。そのような中で首相となったシュトレーゼマンはレンテンマルクを発行して経済を安定させ、「消極的抵抗」を打ち切って「履行政策」に転換、国際協調路線を模索した。
右派勢力は政府転覆の好機と捉え、同1923年11月にヒトラーらの極右集団がミュンヘン一揆を起こしたが、鎮定された。1924年8月には懸案の賠償問題が、ドーズ案の成立で解決の道筋がつけられ、ドイツにはアメリカ資本の支援が行われることによって、生産力も回復した。 - 1925~29年 意外にも外見上は強化された「黄金の」20年代後半。ヒンデンブルクが大統領(在任1925~34)を務める。旧軍人の大統領の登場で右派も満足し、ヒンデンブルク大統領自身も憲法と共和国に従うことを表明したので、安定した。この間、シュトレーゼマン外相の主導による1925年12月のロカルノ条約調印や1926年9月の国際連盟加盟が実現した。しかし、1929年の世界恐慌によって安定は一転、危機に変わった。社会民主党は共和政擁護のため労働組合との連携を強めたが、共産党は社会民主党を社会ファシズムと規定して否定し、社共間の統一戦線はつくられなかった。社会民主党、共産党共に革命近とみていたが互いを敵として認識し、ナチ党を過小評価していた。
- 1930~33年 かなり唐突にきた解体期とヒトラーが権力掌握を準備した時期。1930年、9月の総選挙でナチ党は大躍進、第2党となり無視できない勢力となった。翌31年には恐慌の影響が深刻になり、銀行の倒産、失業者の急増という社会不安が進む中、ナチ党などの右派は再軍備などのヴェルサイユ体制の打破、議会政治の否定、共産主義者やユダヤ人の絶滅を声高に叫ぶようになり、それに対する労働者の中の極左派との抗争が相次ぐ。1932年4月、大統領に再任されたヒンデンブルクは、7月の総選挙で議席230をとってついに第一党となったナチ党の党首ヒトラーに対し首相就任を要請、1933年1月30日にヒトラー内閣が発足した。これがヴァイマル共和国の事実上の終わりとなった。
共和国の弱点
これらの各時期を通じて一貫していたヴァイマール共和国の事情には次の二点が指摘されている。- ヴァイマル憲法に賛成した社会民主党・ドイツ民主党・中央党の三党がヴァイマル連合を形成し、国民議会で多数を占めた。ところがこの中には君主制を回復しようとする勢力、共産主義革命を目指す勢力が混在していた。選挙ごとに政権の組合せが代わり、政府はいずれも即興のもので短命だった。
- ヴァイマル連合の中心になった社会民主党は綱領上は共和主義であったが、エーベルトに見られるように君主政的志向も強かった。また、第二帝国以来の制度、軍隊・官僚・司法・教会・大学・大農業と大工場は社会民主党への協力を拒否した。