アフリカ統一機構/OAU
1963年、ガーナのエンクルマの呼びかけで、アジスアベバで開催されたアフリカ独立諸国首脳会議で発足が決まった、アフリカ諸国の協力機構。
アフリカ独立国首脳会議
1963年3月、ガーナ共和国のエンクルマ大統領の呼びかけで、アフリカのエチオピアの首都アジスアベバで開催された、アフリカ諸国の会議。1960年の「アフリカの年」で独立した17カ国を含め、31カ国が参加し、5月にアフリカ統一機構憲章に調印して終了した。これによってアフリカ統一機構(OAU)が発足し、アフリカの未独立地域の独立支援、旧植民地宗主国の介入や新植民地主義による新たな支配などに反対する体制をつくった。アフリカ統一機構
アフリカ統一機構は略称OAU( Organization of African Unity ) 1963年5月、エチオピアのアジスアベバで31各国が結集した「アフリカ独立諸国首脳会議」で合意されたアフリカ諸国の連合体であり、主権の平等、内政不干渉、主権と領土の尊重、紛争の平和的解決、暗殺・破壊活動の非容認、非独立地域の完全解放、非同盟路線の堅持などをうたうOAU憲章を採択した。本部はアジスアベバに置かれた。アフリカ合衆国の構想
アフリカ統一機構の基礎は、1958年、ガーナのエンクルマ大統領の呼びかけで、アクラで開催された「アフリカ独立諸国会議」であった。ガーナ、エジプト、エチオピア、リベリア、リビア、モロッコ、スーダン、チュニジアが参加したこの会議で、エンクルマは「アフリカ合衆国」の結成を呼びかけた。その構想ではアフリカ諸国の独立はそれぞれが個別なのではなく、アフリカ全体を連合体とした、「アフリカの独立」を目指すものであった。 1960年に一気に17国のアフリカ諸国の独立が達成されたが、すぐにコンゴ動乱が始まると、アフリカ諸国は急進的なルムンバ政権支持派と穏健派とに分裂し、「アフリカ合衆国」構想は実現できなかった。ついでエチオピアのハイレ=セラシエ1世が両派の妥協を図り、政治的統合は棚上げにして全アフリカの協力機構を結成することにこぎ着けたのがOAUである。OAUからAUへ
OAUはその後、国境紛争などで調停の役割を果たした面もあるが、コンゴやルアンダなどの内戦には有効な対処をすることができず、問題ともなった。2002年7月にはEUをモデルに、アフリカ連合(AU)に発展的に解消した。