アフリカ諸国の独立/アフリカの年/1960年
19世紀までにヨーロッパ列強によるアフリカ分割が進み、植民地とされていたアフリカ各地で、第二次世界大戦後に独立運動が活発になり、1960年前後に一斉に独立を達成した。特に17カ国が独立した1960年を「アフリカの年」といっている。
19世紀末までのヨーロッパ列強によるアフリカ分割の中で、第二次世界大戦後に独立国だったのは、エチオピア(1936~42年はイタリアに占領されたがそれ以外は独立国であった)、リベリア(1847年、アメリカから解放奴隷が戻って建国した)、エジプト(1922年、イギリスから独立)だけであった。
第二次世界大戦後、アフリカ各地で独立運動が開始され、まずリビア(1951年独立した王国)、スーダン、モロッコ、チュニジア(この3国は1956年独立)、ガーナ(1957年)、ギニア(1958年)が50年代末までに独立を達成した。
セネガル、モーリタニア、マリ、コートジボワール、ブルキナファソ、トーゴ、ダホメ(現在のベナン)、ニジェール、チャド、中央アフリカ、カメルーン、ガボン、コンゴ、マダガスカル(以上旧フランス領)、ナイジェリア、ソマリア(旧イギリス領)、コンゴ(旧ベルギー領コンゴ。後にザイール、現在のコンゴ民主共和国)
なお、マリとセネガルは当初マリ連邦として独立したが、同年中に分離した。したがって1960年中に独立したアフリカ諸国は17ヵ国となる。
アフリカ諸国の国際的な協議機関の形成も進み、アフリカ統一機構(OAU)が1963年には発足した。アフリカ諸国は、黒人奴隷貿易や植民地支配という長い屈辱の歴史を克服すべく、さまざまな困難の中で、模索を続けている。
また、独立後の経済基盤の脆弱さ、インフラストラクチュアの不備、教育の遅れなどのために社会不安が続き、そのために内戦が絶えず、武力を背景にした軍事独裁政権が生まれやすく、民主的政治体制を維持することが困難であった。
そのため、形式的には独立を達成したものの、経済支援に名を借りた欧米資本主義による間接支配と言う形の、新植民地主義が入り込む余地を残している。またアフリカ諸国の中に石油などの地下資源に恵まれた富裕国と、モノカルチャーに依存する貧困国との格差が広がっている。
第二次世界大戦後、アフリカ各地で独立運動が開始され、まずリビア(1951年独立した王国)、スーダン、モロッコ、チュニジア(この3国は1956年独立)、ガーナ(1957年)、ギニア(1958年)が50年代末までに独立を達成した。
1960年「アフリカの年」
1960年、アフリカの17ヵ国(当初は16ヵ国)が一斉に独立を達成したので、その年を「アフリカの年」と言う。この時独立したのはフランス植民地であったところが多く、ド=ゴール大統領がアルジェリア戦争に押されて、植民地の独立を認める方針に転換したことが大きい。その年に独立した17カ国は、セネガル、モーリタニア、マリ、コートジボワール、ブルキナファソ、トーゴ、ダホメ(現在のベナン)、ニジェール、チャド、中央アフリカ、カメルーン、ガボン、コンゴ、マダガスカル(以上旧フランス領)、ナイジェリア、ソマリア(旧イギリス領)、コンゴ(旧ベルギー領コンゴ。後にザイール、現在のコンゴ民主共和国)
なお、マリとセネガルは当初マリ連邦として独立したが、同年中に分離した。したがって1960年中に独立したアフリカ諸国は17ヵ国となる。
国連の植民地独立付与宣言
1960年10月、国際連合総会において、ガーナのエンクルマ大統領が演説、アフリカの独立への支援と、南アフリカにおけるアパルトヘイトの不当を訴え、大きな反響を呼んだ。それを受けた国連総会は、同年12月の総会で「植民地独立付与宣言」を反対票なしで可決した。そこではすべての植民地支配は人権の侵害であり、すべての人々は自己決定権を有すると宣言した。当時、植民地を所有していたアメリカ合衆国・イギリス・フランス・ベルギー・ポルトガル・スペイン、及び白人至上主義を採っていた南アフリカの7ヵ国は棄権した。アフリカ独立の影響
これらのアフリカ諸国は、第三世界を形成し、東西冷戦での米ソの対立を牽制する力となり、一時期はアジア=アフリカ会議や非同盟諸国首脳会議を通じて、国際社会での発言を強めた。また、独立したアフリカ諸国が国際連合に加盟し、一国一票の国際連合総会で多数を占めるようになると、米ソなどの大国もその力を無視できなくなった。アフリカ諸国の国際的な協議機関の形成も進み、アフリカ統一機構(OAU)が1963年には発足した。アフリカ諸国は、黒人奴隷貿易や植民地支配という長い屈辱の歴史を克服すべく、さまざまな困難の中で、模索を続けている。
ポルトガル植民地の独立
アフリカ植民地の中で最も独立が遅れたのは第二次世界大戦後もサラザール、さらにカエターノによる独裁政権が続いていたポルトガルのアフリカ植民地であった。1960年代に、ポルトガル領のギニアビサウ、アンゴラなどでも激しい独立運動が始まったが、本国の独裁政権によって厳しく弾圧されたが、植民地戦争の継続は独裁政権の内部矛盾も深めることとなり、1974年に独裁政権が倒されてポルトガルの民主化が進んだことによって、ようやく独立承認の動きが実現した。1974年9月の西海岸のギニアビサウをかわきりに、アンゴラ、東海岸のモザンビークが独立を達成した。アフリカ独立の問題点
現在までにアフリカのほとんどの地域が独立を達成しているが、最大の問題は、独立に際して、植民地時代にヨーロッパの列強によって人為的に引かれた境界線がほぼそのまま残されたことである。従って、実際の部族の分布とは一致しておらず、独立後の国境紛争、部族紛争が絶え間なく起こる事となった点である。また、独立後の経済基盤の脆弱さ、インフラストラクチュアの不備、教育の遅れなどのために社会不安が続き、そのために内戦が絶えず、武力を背景にした軍事独裁政権が生まれやすく、民主的政治体制を維持することが困難であった。
そのため、形式的には独立を達成したものの、経済支援に名を借りた欧米資本主義による間接支配と言う形の、新植民地主義が入り込む余地を残している。またアフリカ諸国の中に石油などの地下資源に恵まれた富裕国と、モノカルチャーに依存する貧困国との格差が広がっている。
1960年
「アフリカの年」、日米安保改定、韓国民主化運動など冷戦体制の分極化が進んだ年であった。
アフリカで17の新しい独立国が生まれた1960年はアフリカの年といわれる。一方、日本にとっては「60年安保」と言われた、日米安保条約の改訂に対する激しい反対運動が起こった年であった。安保条約は改訂され、日本は反共陣営の一員としてアメリカと軍事同盟で結びつけられることとなった。その背景には、50年代後半の米ソの平和共存路線が、60年のU2型機事件を機に再び東西冷戦となって冷えこんだことがあげあれる。同年、韓国では学生を先頭にした民主化運動が盛り上がり、李承晩政権が倒れている。ヨーロッパではド=ゴールのフランスが核実験(独立前のアルジェリア南部のサハラ砂漠で行われた)を行い、イギリスはEECに対抗して結成したヨーロッパ自由貿易連合(EFTA)が発足させ、冷戦構造が分極化し始めた年でもあった。