ルムンバ
アフリカの民族運動指導者。1960年にベルギー領コンゴの独立を達成するも、コンゴ動乱で反政府軍に殺害される。
Patrice Lumumba
1925-61
コンゴ動乱で殺害される
しかしベルギーは地下資源の豊かな南部カタンガ州の実効支配を狙い、分離派のチョンベを煽動、チョンベは政府に反旗をひるがえして分離独立を主張し、1960年7月6日にコンゴ動乱となった。ルムンバは国連軍の派遣を要請したが、国連はカタンガ州の鉱山資本と結んでいる軍のモブツ将軍を支持したため消極的で、ルムンバは事態打開のため、急速にソ連に接近した。大統領カサブブはアメリカの支援を期待したので、対立が生じた。9月に国連とアメリカの後押しによるモブツ将軍のクーデターによってルムンバは解任され、さらに12月1日に逮捕、翌年1月に後に殺害された。コンゴには国連軍が派遣されていたが、ルムンバ逮捕・殺害について傍観した。東西冷戦下に親ソ的な姿勢を示したルムンバ政権によって、カタンガ州の鉱山資源が国有化されることをおそれた国際資本とベルギーおよびアメリカが、ルムンバの排除を画策したのである。そして国連がそれに力を貸すこととなった。Episode 息子よ未来は美しい-ルムンバの遺書
コンゴ動乱のさなか、ルムンバ首相は反政府軍に捕らえられ、ベルギー軍の飛行機でカタンガに送られ、61年1月、チョンベ政権によって裁判なしに虐殺された。獄中でルムンバが妻と子に残した遺書にはこう記されていた。(引用)あとにのこる息子たちに、もしかしたら二度とあえないかもしれない息子たちに、わたしはいいたい-コンゴの未来は美しい。わたしたちは息子たちに、一人ひとりのコンゴ人に期待するのと同様に、われわれの独立と主権を回復する聖なる課題をはたしてくれることを期待する。・・・・やがてその日がきて、歴史がかならず判定をくだすだろう。しかしそれは、ブリュッセルやパリ、ワシントンあるいは国連でおそわる歴史ではない。これは、植民地主義とその手先から解放された国々でおしえられる歴史である。アフリカは、じぶんの独自の歴史をかくだろう。そしてこれは、北アフリカでも南アフリカでも、栄誉と尊厳の歴史となるだろう。・・・<ルムンバ『息子よ未来は美しい』1961 理論社 p.130>
NewS ルムンバの歯、故国に帰る
ベルギー政府は2021年6月21日に、アフリカ、コンゴ(旧ザイール)の独立指導者パトリス・ルムンバの遺物である歯をコンゴに返還した。コンゴを独立に導き、初代首相となったルムンバは、独立直後の1961年、反政府軍に捕らえられて処刑されたが、そのとき遺体を酸で溶かしたベルギー人の警官が記念品として歯を持ち帰っていた。その所在がベルギーで確認され、21日に開かれた式典でコンゴのチセケディ大統領に引き渡された。コンゴ政府は独立記念日の30日に改めてキンシャサで帰還式典を開催する。ベルギーのフィリップ国王が当初、コンゴ入りを検討していたが、新型コロナウィルスを理由に断念した。 → JIJI.COM ルムンバの歯、故国へ帰る 2021/6/18