印刷 | 通常画面に戻る |

コンゴ民主共和国

ベルギー領コンゴからルムンバらの指導で1960年に独立。初めコンゴ共和国として独立したが、内紛にベルギー、アメリカなどが介入し、コンゴ動乱となった。65年にモブツ独裁政権となり、71年にザイールに国号変更、1997年に現行の国号となったが、豊かな地下資源を巡り、紛争が続いた。

コンゴ民主共和国 GoogleMap

ベルギー領コンゴで、広大なコンゴ川(ザイール川)の左岸流域、コンゴ盆地を含む大国。首都はキンシャサ(旧レオポルドビル)。公用語はフランス語。
 14~19世紀にコンゴ王国が繁栄していた。まず15世紀からポルトガル人が進出、ついで19世紀後半にベルギーレオポルド2世スタンリーにコンゴ川流域を探検させて、現地の首長と貿易独占条約を締結して植民地化した。レオポルド2世はついでコンゴ国際協会の管理という形とし、1884~5年のアフリカ分割に関するベルリン会議において領有が認められると1885年4月コンゴ自由国とした。その実態はベルギー国王レオポルド2世の私有地であり、そのもとで過酷な現地人への収奪が行われ、国際的な非難が起こり、1908年8月にはベルギー政府が直轄するベルギー領コンゴとした。

独立と内戦

 第二次世界大戦のアジア、アフリカにおける民族運動の高まりの中で、1958年からルムンバらに指導された独立運動が始まり、1960年アフリカ諸国の一斉独立とともに、1960年6月30日にコンゴ共和国として独立を達成した。しかし、ベルギーは南部カタンガ州の分離運動を煽動し、それに乗じて南部で反乱が始まり、1960年7月、コンゴ動乱に突入した。ルムンバは国際連合に支援を要請したが、国連はベルギー・アメリカと共に分離勢力を支持したため消極的であった。そのためルムンバはソ連に急接近し、それを警戒するアメリカは、軍のモブツ将軍を動かしてクーデタを起こさせ、モブツはルムンバを逮捕、殺害した。内戦は背後の米ソの支援もあって長期化し、5年も続いた。

モブツ政権、ザイールに国号変更

 1965年にモブツ将軍は軍事クーデターで実権を握り、アメリカの支援を受けて独裁的な政権を打ち立て、1971年には国名をザイールに変更した。ザイールはコンゴ川のことで、1482年にポルトガル人がギニア湾を航海して初めてこの地に来たとき、大きな川の河口にであい、現地人に川の名前を聞いたところ、「ンゼレ」とか「ウザディ」と答えたのを聞いた。そこから「ザイレ」と名づけられ、それがザイールとなったという、古い由緒のある地名だった。モブツはさまざまな改革に取り組み、国号を改称しただけでなく、通貨の名称も変えたが、この時川の名前も「ザイール川」に変えられた。

再度の国号変更

コンゴ民主共和国国旗
コンゴ民主共和国国旗
 ザイール共和国のモブツ政権は長期政権となる中で腐敗が進行し、人権抑圧も続いた。30年以上にわたって続いたモブツ独裁政権は、1997年5月、軍事クーデタによって突然倒され、ローラン=カビラが大統領となった。カビラ大統領は就任すると同時にまず国号を改め、コンゴ民主共和国とした。コンゴ川(ザイール川)を挟んだ隣にはフランス植民地から独立したコンゴ共和国(1969年にコンゴ人民共和国と改称し、1991年に戻った)からは、無用の混乱を招きかねない国名変更であると苦情がでたが、国号変更は強行された。これによって、コンゴ民主共和国(旧ベルギー領コンゴ、首都はキンシャサ)とコンゴ共和国(旧フランス領コンゴ、首都はブラザビル)が併存するという現在の状況となった。
 コンゴ民主共和国ではその後も東北部でのルワンダやウガンダからの軍事干渉が続き、カビラ大統領が2001年に暗殺され、その子ジョゼフが大統領となるなど、混乱が続いている。
印 刷
印刷画面へ