光州事件
1980年5月、韓国の光州市で全斗煥による軍事クーデターに抗議した学生・市民の大衆運動が一時、解放区を形成。戒厳令を布いた韓国軍により軍事鎮圧される。その後全斗煥の軍事政権が続いたが、民主化運動の原点の一つとなった。
光州 GoogleMap
光州市はそれ以前から朴正煕大統領の維新体制の下で学生運動や在野運動、農民運動の有力な拠点となっていた。その他にキリスト教系の農民会やYMCAなどの宗教団体、韓国アムネスティ、青年学生団体などが組織され、国立の全南大学は全国的な学生運動の拠点の一つだった。
全斗煥クーデタと学生の反乱
1979年10月26日の朴正煕大統領射殺事件で軍事独裁政権に動揺が走ったことをきっかけに、ソウルを中心に民主化運動「ソウルの春」が一気に動き出した。翌1980年5月16日にはソウルで学生・市民のデモは5万人にふくれあがった。光州でも市民・学生が一体となった集会が開催された。翌5月17日、それらの動きを封じるように、全斗煥らの一部軍人がクーデタを決行、全権を掌握したとして戒厳令を全土に発布し、民主化運動を金大中らの煽動による暴動であるとして逮捕し、全面的弾圧を開始した。市民軍の結成へ
光州では1980年5月18日未明、第7空挺旅団の二つの大隊が全南大と朝鮮大に進駐しようとして、全南大校門前で学生との衝突が始まった。いったんは蹴散らされた学生たちは光州駅前広場で隊列を整えて道庁に向けてデモ行進、今度は機動隊と衝突した。午後には空挺部隊が市内に投入され学生たちを手当たり次第に殴打して服を剝ぎ取り、下着一枚にしてトラックに押し込んだ。この日400人の学生が連行され、80人が負傷した。19日、激昂した市民は角材、鉄パイプ、火炎瓶などでわたりあい、午後には2万人に膨れ上がり、民衆抗争となった。21日には民衆はMBC放送の建物を焼き打ち、空挺部隊は一斉射撃で駅前広場は血の海と化し、それに対して市民は羅州や木浦の武器庫を襲って武装し、市民軍となった。市民軍は空挺部隊を郊外に後退させ、道庁を接収して「解放区」となった。軍は光州への交通路をすべて遮断し、テレビを通じで光州市民の暴動を北朝鮮のスパイの策動と宣伝した。全斗煥が掌握した軍部(「新軍部」と呼ばれた)は光州での徹底した弾圧で反政府運動に対する見せしめとしようとした。背景にはソウルなど韓国北部地域の人々の、全羅南道など「湖南人」に対する地域的偏見があるという。「解放区」への弾圧
学生と市民は市の中央部の噴水台を占拠して自治共同体を組織して執行部を選出し、23日には5万人の市民が集結した。自治共同体の執行機関として市の有力者や学生による市民収拾対策委員会が作られ、戒厳軍との交渉が始まったが、武装解除をめぐって穏健派と闘争派に分裂、25日に闘争派執行部は最後まで闘うことを呼びかけた。26日の市民大会では最後まで闘うことが決議されたが、翌37日早朝、市民軍に対して空挺部隊の武装ヘリが動員されて道庁に突入して鎮圧、投降した市民を射殺した。2001年までに韓国政府が確認した光州事件での犠牲者(死者)は民間人で168人、軍人23人、警察4人、負傷者は4782人、行方不明406人に達する。<i以上、文京洙『韓国現代史』2005 岩波新書 p.142-147 によって再構成。同じ著者による『新・韓国現代史』2015 岩波新書 p.140-144 にも同様の記事がある。>