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金大中/キムデジュン

韓国の軍事独裁に抵抗する民主派として活動し、1973年には朴正煕政権によって東京で拉致された。1998年に大統領となり、経済の再建と北朝鮮との融和策である太陽政策を進め03年まで在職した。

金大中wikimedia-commons

金大中

 キム=デジュン。Kim Dae-jung 大韓民国の政治家で第15代大統領(在任1998年~2003年)。韓国南西部の全羅南道出身で、70年代から朴正煕の独裁政治に反対して政治の民主化をかかげ、4度目の挑戦で大統領に当選した。2000年には分裂後初めての南北朝鮮の首脳会議を実現させて、ノーベル平和賞を受賞した。

独裁政治と戦う

 1970年代に朴正煕軍事政権の独裁政治に反対する民主化運動を指導し、71年には新民党から大統領選に出馬し、惜敗した。1973年8月に東京で韓国中央情報局(KCIA)によって拉致され、5日後に解放されるという金大中事件に遭遇した。1976年には金大中は「民主救国宣言」を発表したが、緊急措置令違反として逮捕され、1977年には政権批判の罪で禁固刑となり、翌年特赦された。
 1979年10月26日朴正煕大統領射殺事件が起きて朴政権は一挙に崩れ、「ソウルの春」といわれた民主化の動きが高まると、金大中への期待も高まったが、実権を握った軍人の全斗煥は民主化運動を弾圧し、朴政権の軍部独裁政治を継承した。それに対して1980年5月18日~27日に光州事件で激しい民主化の闘争が起きると、軍は光州のある全羅南道の出身である金大中を民衆暴動を扇動したとして逮捕し、裁判は死刑判決を下した。金大中はこのように軍事政権下で一貫して民主化運動の先頭に立ち、弾圧を受け続けた。
 1982年に死刑執行は停止され、政界に復帰、1987年6月29日、再び民主化闘争が激化し、全斗煥も大統領の国民による直接選挙などの憲法改正を容認、その年12月の大統領選挙に立候補した。このときは民主運動から金泳三も立候補したため票が分散し、旧軍人の盧泰愚の当選を許した。1992年の大統領選に立候補したが、ここでは金泳三に敗れた。

大統領となる

 アジア通貨危機に見舞われた大韓民国の経済再建を課題とする大統領選挙で国民会議から立候補、1997年12月18日、ハンナラ党の李会昌をわずか39万票の差で破って、4度目の挑戦で大統領に当選した。

構造調整政策

 韓国政府はIMF自身の210億ドルを含めた583億5000万ドルの巨額な融資をうけ、IMFの管理体制下に置かれ構造改革を進めることを確約した。IMFの提示したプログラムに従い、まず新たな金融監督機構を設置し、金融機関の統合、公的資金を投入して不良債権の整理などに当たり、一方で資本市場の自由化を図り銀行・証券などの金融部門への外資の流入を認めた。またIMFが強く求めた労働市場の柔軟化も進められ、整理解雇の容認、派遣労働の導入とその一方での公務員・教員の労働組合が承認された。このようなIMF主導の構造調整政策の結果、労働現場は混乱し、解雇反対闘争やストライキが多発した。経済は危機を脱し、2000年にはふたたび成長に転じたが、その後急速な市場原理主義の浸透の結果、中間層の解体と格差の拡大、大学入試の異常な加熱、金銭万能主義などの病理もまた深まり、政治的な保守化と若者層の無関心が広がった。<文京洙『新・韓国現代史』2015 岩波新書 p.193-196>

北朝鮮政策

 対朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)外交では「太陽政策」(北朝鮮への開放宥和政策)をかかげ、2000年6月13日には北朝鮮の首都平壌を訪問し、金正日総書記との初の南北首脳会談を実現させ、「南北共同宣言」を発表した。南北対話が実現したことによって、北の脅威を理由とした自由や言論の制限が意味を持たなくなり、韓国の民主化は一段と進むこととなった。<文京洙『前掲書』 p.196>
 その功績によって金大中はノーベル平和賞を受賞した。太陽政策は、次の大統領盧武鉉(ノムヒョン)に継承され、2007年には盧武鉉と金正日による第2回の南北首脳会談が開催された。しかし、その後の進捗が見られないまま、次の李明博大統領が金大中の路線を破棄して対北朝鮮強硬路線に転換、北朝鮮でも2011年に最高位が年若い金正恩に世襲され、再び暗雲が立ちこめることとなった。
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文京洙
『新・韓国現代史』
2015 岩波新書