朴正煕/パクチョンヒ
1961年、軍部クーデターで権力を握り63年より大統領。1971年には憲法を改正、維新体制と言われる独裁体制を樹立した。この間、韓国は開発独裁のもとで経済を急成長させた。1979年に部下によって暗殺され、軍部独裁政治は全斗煥が継承した。
朴正熙
- 軍部独裁政権の樹立 韓国陸軍は李承晩政権を倒すことに力を貸したことによって発言力を強めていたが、その中で実力を蓄えた朴正熙は、1961年5月16日に軍部クーデタで軍事政権を樹立した。この軍事革命によって成立した軍事革命委員会(後に国家再建最高会議と改称)議長に就任した朴正熙は、さらに大統領代理・首相を兼任しした。次いで憲法を改正、軍服を脱いで政党民主共和党を結成、大統領選挙で選出されて1963年12月17日に大統領に就任した。
- ベトナム戦争参戦と日韓基本条約 朝戦争後の経済再建に取り組みながら、1965年にアメリカを支援してベトナム戦争に参戦、同年日韓基本条約を締結した。それはベトナム参戦の見返りとしての経済支援を、アメリカが日本に肩代わりさせる形となり、国民の間に戦後賠償が不十分であるという強い反対があったが、強硬に批准し、日本との国交を開いた。その経済援助によって、韓国は工業化に着手し、1970年代に急速な経済成長を遂げた。
- 維新体制と民主化運動弾圧 1971年には金大中らの民主化運動を弾圧して大統領に三選され、1972年10月には北の脅威が高まっているとの口実によって憲法を改正、大統領を国民会議による間接選挙に改め「10月維新」といわれる体制を作り上げた。経済成長とともに中間層が成長し、韓国でも政治の民主化を求める声が強くなったが、朴政権は中央情報局(KCIA)などを用いて諜報活動をおこない、民主化運動を反政府活動として厳しく取り締まった。その過程で多くの学生や活動家に犠牲が生じた。
- 開発独裁による経済の急成長 60~70年代、韓国は朴正熙の独裁的な権限のもとで経済成長を図る開発独裁のもとで経済の基盤を作った。その結果、韓国経済は工業部門、特にITや通信部門で急成長し、1980年代は韓国は新興工業経済地域(NIEs)の一つとして台湾やシンガポール、香港とともに世界経済の中で重要な位置を占めるようになった。
Episode 日本軍人だった朴正煕
朴正煕は1917年、慶尚北道の両班の家系だが没落して貧農となった家に生まれ、日本名を名乗って満州軍学校と陸軍士官学校で学び、関東軍の陸軍中尉として軍務についた。その中で、日本の青年将校の「昭和維新」の思想に心酔したと言われる。満州国崩壊後、韓国陸軍の士官学校に二期生で入学、三番の成績で卒業した。曲折はあったが軍の若手将校との知り合い、後のクーデターのメンバーとした。朴正煕の経歴に危険を感じたアメリカは当初は軍事クーデターを承認しなかったが、日本の池田首相は日韓国交回復には朴正煕の満州国人脈を使えると考え、アメリカに働きかけ、アメリカも朴政権承認に踏み切ったという。<文京洙『韓国現代史』2005 岩波新書 p.102-103>日韓基本条約締結
朴正煕政権は反共姿勢を強め、憲法を改正して責任内閣制を改めて大統領制とした。それを第三共和政と称したが、実態は朴正煕による独裁体制であった。朴正煕政権はアメリカのベトナム戦争に全面的に協力し、1965年には日韓基本条約を締結して反共陣営としての日本との提携を強めた。ベトナム戦争と韓国
ベトナム戦争が本格化した1965年から73年にいたる期間、アメリカの要請を受けて約5万人、延べ31万人に及ぶ韓国軍実戦部隊が派遣された。その規模はオーストラリアやニュージーランドを含む東南アジア条約機構(SEATO)諸国全体の約4倍にあたっていた。ベトナム戦線では韓国軍はその残虐性が恐れられ、実際、ベトナムにおける悪感情はその後も強く残った。一方、韓国軍の派兵の見返りとしてアメリカは多額の資本を韓国に投入し、その経済成長を助けた。朴正熙時代の韓国の急速な工業化、経済成長の背景にはベトナム戦争への協力への見返りとしてのアメリカ資本の導入があった。また、日韓基本条約の締結を急いだのも、日本の経済支援を得る目的があった。「10月維新」と金大中事件
一方、極秘裏に北朝鮮の金日成と交渉し、1972年に南北共同宣言を発表したが、統一交渉は進展しなかった。同1972年10月には新憲法(維新憲法)を制定、大統領緊急措置令で強大な大統領権限を手中にして「維新体制」といわれる独裁体制をかためた。国内の反対派に対しては「中央情報部(KCIA)」による諜報活動を行い、1973年には野党指導者の金大中を東京で拉致(金大中事件)したり、さまざまな非人道的な取り締まりを行った。※維新という言葉 「維新」は日本では「明治維新」で使われ(昭和の二・二六事件の青年将校たちは自分たちの行動を「昭和維新」と称した)、現代では改革を標榜する「大阪維新の会」で復活した。しかし、韓国で「維新」というと朴正熙の軍事独裁政権の時代のことが思い出されるだろう。橋下徹氏が「維新」という言葉を使ったのは明らかに明治維新を意識してのことであろうが、韓国では朴正熙が使った言葉であることも知っておく必要はあろう。
開発独裁の推進
この間、産業の育成、工業化を推進し、「漢江の奇跡」と言われる経済成長を実現したが、その手法は「開発独裁」といわれるもので政権と関係の深い特定の財閥が急成長した。朴正熙の経済指導は次のように行われた。(引用)朴正熙が1961年5月に権力を掌握した時、彼はアメリカの援助が終わった後に韓国は国防に必要な財を作りうるようにしなければならないと決心していた。彼は貧困にあえいでいた庶民の生活を改善したいと願い、やがて彼は彼の権力掌握を違法なものとみなす人びとから自分の政治基盤を守るためにも経済的進歩が必要だということを悟り、経済的進歩を自らの使命とした。最初の100日間で彼は経済企画院を創設して急速な発展の調整にあたらせ、また最初の五カ年計画を1962年に始めると発表した。……最頂点にたって、朴は有能な企業重役や経済テクノクラートの小さなグループを選び、彼らと定期的に会った。……彼は見識ある人びとからの助言であればこれを進んで受け入れてすばやく学び、経済のためなされる必要があれば、これらをただちに実地に移すことにより名声を得た。政府は小さく、重要な決定は非常に中央集権化されていた。蔣介石が、経済を発展させる上でスーパー・テクノクラートにかなりの独立性を許容して、いわば取締役会の議長のごときものであったとするならば、朴正熙は重要な意思決定を自分自身で行う前線指揮官に似ていた。<エズラ=ヴォーゲル/渡辺利夫訳『アジア四小龍』1993 中公新書 p.73-75>
朴正熙大統領暗殺事件
憲法改正・野党の弾圧など、不当な手段で権力を維持しながら、経済成長を実現したことで民衆の支持をつなぎ止めていた朴正熙であったが、その独裁政治は1961年の権力掌握から18年にも及んだ1970年代末には、様々なほころびが生じてきた。特に1973年の金大中事件は、朴政権の暴力的性格を露呈し、金泳三ら野党指導者による民主化運動も活発になって行き、アメリカも朴政権の非民主的政治を批判するようになった。1979年秋ごろになると朴正熙の次期権力をめぐって暗闘が始まっていた。それまで独裁権力を支えていた中央情報局(KCIA)の部長金載圭は、朴の寵愛が警備部長車智澈に移ったことに焦りを感じていた。当時、野党指導者金泳三が外国メディアで政権を批判したことを理由に、朴大統領が金の国会議員資格を奪ったことに反発して、金の出身地の釜山を中心に激しい反政府デモが起こると、朴は車の意見を容れて戒厳令を布き、軍隊を派遣して民衆を弾圧した。1979年10月26日、朴はソウルの宮井洞で宴会を開き、金部長を呼んで車とともにKCIAが釜山のデモ鎮圧にあたって無能であったと叱責すると、金部長はピストルをとりだし、二人を射殺した。<木村幹『韓国現代史』2008 中公新書 p.156-165>
拳銃を準備していたことは金部長が朴大統領を射殺することを決意していたことがわかる。金部長は軍に出頭したところを逮捕され、後に裁判で死刑となった。裁判では次期大統領の地位を狙ったクーデタ未遂事件とされたが、金部長は1961年の革命の同志だった朴正熙が、次第に革命の精神を忘れ、民衆弾圧に向かったことを革命への裏切りと断じ、民主主義を守るためにやむなく殺害したのだ、と述べた。
事件後の韓国
金載圭は「野獣の心で維新の心臓を撃ち抜く」覚悟だったと事件後に証言した。彼は同郷の朴正熙に引き立てられ76年には朴に次ぐ権力者と言われた情報部長の地位に昇りつめた。その彼が朴大統領を射殺するという凶行に及んだのは、彼が裁判で語ったことによれば、当時釜山と馬山で起こっていた「釜馬事態」といわれた民衆の反政府運動を、朴や車が力で抑えようとしたことに対して、流血の事態を避けるため凶行に及んた、ということだった。ソウルの春 事件の翌27日、済州島を除く全土に戒厳令が宣布され、崔圭夏国務総理が大統領権限を代行したが、水面下では軍内部では金部長とも関係のよかった鄭昇和陸軍参謀長ら上層部と、朴直系の全斗煥保安司令官ら陸士十一期生を中心とした「ハナ会」の二勢力が主導権をめぐって暗闘を開始していた。その暗闘は12月12日に全斗煥らが鄭参謀長を朴射殺事件に関与したとして逮捕し、決着がついた。全斗煥はこのクーデタによって軍の指揮権を握った。
一方、最高権力者の突然に死によって「ソウルの春」と言われる民主化への期待が一挙に高まり、80年2月には朴政権下で抑えられていた金大中、金泳三らが復権した。しかし、金鐘泌も政権に意欲を見せ、権力をめぐって三人の金氏が争うという事態となり、民主化運動はまとまることができなかった。労働組合の争議、学生の軍事教練反対運動がかさなり、5月には民主化を求めて全国的なデモがピークを迎え、5月15日には十万もの民衆がソウル駅前に集結した。しかしこの時は学生団体の首脳部は、軍隊出動のうわさがたつなか、大学に戻る指令を出し運動を自主的に終結させた。
五・一七クーデタ 5月17日、軍指揮権を握った全斗煥は戒厳令を済州島を含む全国に拡大、18日に金大中、金鐘泌らを騒擾の背後を操縦していたなどの口実で逮捕、金泳三も自宅軟禁にされた。民主化運動を進める三人の金氏はたがいに反発し合いながら、ついに一本化することができず、その活動を封じられた。戒厳布告は政治活動の停止、言論・出版・放送などの事前検閲、大学の休校などが盛り込まれ、この五・一七クーデタで「ソウルの春」はひねり潰され、朴正熙に代わる全斗煥による新たな軍部独裁政治が始まった。<文京洙『新・韓国現代史』2015 岩波新書 p.136-139>
この全斗煥の軍事グーデタ政権に対して、果敢な抵抗を試みたのが、1980年5月18日~27日の光州事件であった。光州事件を弾圧した全斗煥政権によって「ソウルの春」は沈黙させられ、その後は、米ソの新冷戦の中で緊張が高まり、民主化運動は停滞した。ようやく1987年、大統領直接選挙の要求が高まって六月民主抗争がおこり、全斗煥が辞任して韓国は民主化の時代にはいる。
参考 金大中の見た朴政権
朴正熙政権に対する批判と民主化闘争を続け、金大中事件ではあやうく殺されかけた金大中は、朴政権の特色は何であったかと日本の雑誌『世界』編集部の質問に答えて、次の三つだと答えている。- 軍事政権であること。軍隊の発想はエネミー(敵)だけであって、ライバル(好敵手)というのがない。エネミーというのは殺して止まないという考え方をする。言論も野党も、敵とみたらいかなる手段を使っても徹底的に押しつぶす。勝つのが正義であり最後の目的であるというのが朴政権の特色です。
- 情報万能の政権であること。大統領朴正熙、国務総理金漳泌など青瓦台(大統領官邸)の要職はすべて情報将校出身である。日本の憲兵、特高と同じで、彼らはものを正面からみるとか、民衆を説得するとかということは体質的にできない。相手の弱点を探り、その裏をかこうとする。国民に対しては盗聴してるぞ、と情報を流すなどの脅迫と流言でおびえさせている。
- 変わり身の早さ。これはすばらしいとでも言う以外には無いほどです。実に驚くほど前言をひるがえす。例えば61年5月の軍事クーデタでは軍事政権はすぐに民政に移すと言った。63年2月27日には国民の前で涙を流し民政移管には参加しないと宣言し、「私のような不幸な軍人が再び出ないことを望む」と言った。ところが1ヶ月も経たない3月16日にはひっくり返って軍服を背広に着替えて参加した。67年選挙では、私は三選改憲は絶対しないと言ったが、69年には三選改憲してくれなければ大統領を辞めると国民を脅迫し、結局憲法を改正した。71年の大統領選では群衆の前で涙を流しながら、大統領選に出るのは今度が最後だと演説した。それから1年半、72年10月には「維新」の名のもとに戒厳令をしいて憲法を改正し、完全な独裁制を作り上げた。目的のためにはみずからのことばに対して全く責任を負わない政権です。