カダフィ大佐
1969年のリビア革命以来のリビアの指導者。独裁的な権力を握ったが、2011年の「アラブの春」の民衆蜂起によって殺害された。
カダフィ大佐 1970
公式には大統領ではなく革命指導者という称号を用いているが、事実上の実力者・元首として権力を一身に集中している。その豊かな石油収入を背景とした強硬な外交政策はアメリカからも危険な独裁者と見なされ警戒されている。その著書『緑の書』3巻(1976~79)では、資本主義でも社会主義でもないという意味での第三の普遍理論を目ざしていた。
イスラーム世界の指導者を持って任じており、1972年からのインドネシアのイスラーム教徒の分離独立を掲げたモロ民族解放戦線(MNLF)を支援、76年のトリポリ協定を仲介した。
カダフィ大佐の権力
1969年、カダフィ大佐が11名の青年将校と共に軍事クーデターで王政を倒したのは、わずか27歳の時だった。リビアはイスラーム教スンナ派の国家だが、カダフィ自身はアラブ化したベルベル人の貧しい遊牧民カダファ族で、その支持母体は砂漠の少数民族であった。カダフィ大佐は権力掌握後、リビアの伝統的な社会に人民主権に基づく直接民主政である「ジャマヒリア」(アラビア語で民衆の意味、人民民主主義と訳される)を樹立し、国名も「大社会主義リビア=アラブ=ジャマヒリア」と名付けた。この体制では憲法や国会は無く、国家元首も存在しないので、カダフィも要職には就かず、革命の指導者としての「カダフィ大佐」で通した。カダフィ大佐の権力の追い風となったのは石油資源だった。1959年に発見されたリビアの油田はカダフィ体制のもと国家資源とされて急速に増産され、それにともなって工業化・都市化も急速に進んだ。カダフィ大佐は潤沢な石油収入を国民に分配することで絶対的な権力を維持することができたが、そのパーソナル・リーダーシップは「反西欧」の姿勢を強め、国内の自由な発言や外国文化との接触の自由を奪うことで成り立っていた。
Episode 兄貴と呼ばれた権力者
リビアの独裁者は「人民による直接統治」を掲げ、政府や議会を廃止。自身もすべての公職を離れた。事実上の独裁者であるが具体的な役職がないので、「大佐」の肩書きがそのまま使われた。国内の報道機関は「革命指導者」と呼称するが、公式には「兄貴」を意味するアラビア語「アフ」をつけている。彼は遊牧民の生活にこだわり、訪問先の外国でもテントを張って宿泊していた。その一族びいきは桁外れで、彼の子供はそれぞれ重職に就いたが中には変わり種もいたようだ。長男はリビアのオリンピック委員会会長を務め、後継有力者と見做された次男は政権のスポークスマンとして外交交渉にも参加した。2011年2月の民主化運動のデモ隊を「麻薬常用者、ギャング、イスラーム過激派」と決めつけ憎しみをかった。三男はイタリアのサッカーチーム・ペルージャに入団して話題になり、4男は国家安全保障担当補佐官、5男はビジネスマンだが海外での豪遊やトラブルが再三報道された。6男は不明。7男は保守派の期待を集める軍司令官。長女は弁護士でイラクのサダム=フセイン元大統領の国際弁護団に加わった。<以上 朝日新聞2011年2月22日の記事による>
カダフィ政権の崩壊
2011年、アラブの春の民主化運動がリビアに波及すると、カダフィ大佐は軍、警察を動員して弾圧を試みたが、北大西洋条約機構(NATO)が軍事介入、カダフィ大佐は同2011年10月20日に出身地のシルト郊外で拘束された後、殺害された。