印刷 | 通常画面に戻る |

コソヴォ問題/コソヴォ紛争/コソヴォ自治州/コソヴォ共和国

旧ユーゴスラヴィア連邦のセルビア共和国内のコソヴォ自治州が、1991年、完全独立を要求し紛争が起こった。ムスリムであるアルバニア系住民が多い。1999年にはNATO軍がセルビア側を空爆した。2008年、コソヴォ共和国として独立宣言を行ったが、まだ国際的な承認には至っていない(日本政府は承認)。

 旧ユーゴスラヴィア連邦を構成するセルビア共和国の中のコソヴォ(コソボ)自治州は、アルバニア系住民が多く、しかも彼らはイスラーム教徒(ムスリム)であったので、1980年代からスラヴ系民族でセルビア正教会が多数派であるセルビアからの分離独立を求める声が強くなった。 → コソヴォ共和国の独立宣言

Episode 学食破壊から暴動始まる

 ユーゴスラヴィア連邦の絶対的な指導者であったティトーの死んだ翌年、1981年3~4月、コソヴォ自治州で大規模なアルバニア人の暴動が発生した。その時点でコソヴォの約160万の人口の内アルバニア人は78%、セルビア人13%であったが、経済的な格差が学生の最も強い不満であった。暴動のきっかけもアルバニア人学生が学生寮食堂の料理のまずさに不満をぶつけ、食堂を破壊したことがきっかけだったという。<柴宜弘『ユーゴスラヴィア現代史』1996 岩波新書 p.137>

コソヴォ共和国の宣言

 ソ連のゴルバチョフ政権新思考外交への転換は、東欧社会主義諸国の変革の動きが一気に吹き出すきっかけとなり、1989年に東欧革命の大波が起こった。ユーゴスラヴィアでも民主化と民族の自立の要求が高まり、1991年にユーゴスラヴィア内戦が開始された。セルビア共和国内の自治州であったコソヴォも自治権の拡張を要求した。それに対して、連邦制の維持をめざすセルビアのミロシェヴィッチ政権は、コソヴォの自治権に対しても制約を加えたので、コソヴォ側は反発し「コソヴォ共和国」の独立を宣言した。

ユーゴスラヴィア解体の進行

 セルビアはそれを認めなかったが話し合いは続けられた。この間、ユーゴスラヴィア内戦はスロヴェニア、クロアティアが分離独立し、さらにボスニア内戦へと移って行き、1995年8月末のNATOの空爆でセルビア側が沈黙させられて、一応の停戦が成立、その結果、ユーゴスラヴィアの解体は決定的となった。

コソヴォ紛争の表面化

 コソヴォのアルバニア系住民の自治要求はさらに高まったが、セルビア(このころは新ユーゴスラヴィア連邦)のミロシェヴィッチ大統領は、ついに1998年セルビア治安部隊を派遣して、コソヴォ解放軍の掃討作戦を実施し、コソヴォ問題が新たな紛争として表面化した。国連が仲介する事態となり、その過程でミロシェヴィッチ政権がアルバニア系住民に対する虐殺行為を容認したとして、国際社会から厳しく非難された。

NATOの空爆

 セルビアがNATOによる治安維持という調停案を拒否し、アルバニア系住民に対する虐殺行為を続けると、1999年3月、アメリカ合衆国大統領クリントンはアメリカ軍を含むNATOは「人道的介入」を掲げてコソヴォ空爆に踏み切った。NATO軍の空爆は国際連合の承認無く行われ、しかも創設以来初めての、加盟国域外への攻撃であったが、クリントン政権はそれを「人道的」にやむを得なかったと正当化した。こうして「コソヴォ紛争」は大規模な戦争となり、アルバニア系住民によるセルビア人襲撃も頻発し泥沼化した。 → NATOの変質

ドイツの空爆参加

 このとき、ドイツのシュレーダー内閣(社会民主党と緑の党の連立)は、NATOの一員としてコソヴォ空爆に参加した。これは戦後ドイツの最初の本格的な国外への空爆参加となった。ドイツでは当初、かつてのドイツ人がナチスのユダヤ人虐殺を黙認したことへの反省から、セルビア人の虐殺行為に対する「人道的介入」を行うべきであると判断したのであるが、国連決議がないこと、「介入しない罪」の一方で「介入する罪」もあるという反対意見も強かった。政権内部の緑の党もその判断をめぐって分裂したが、介入は実施された。このことは戦後ドイツにとっても重い判断となった。軍事行動後には逆にアルバニア人のセルビア人に対する残虐行為も明らかにされ、「人道的介入」の正当性が疑われている。

コソヴォ共和国の独立宣言

2008年、セルビアから分離独立を宣言した。しかし、セルビア、ロシアが反発し、国際的には未承認国が多い。国際連合にも未加盟である。

koaovo
コソヴォの位置。彩色部分が旧ユーゴスラヴィア連邦。
 コソヴォ自治州の分離独立に対して、セルビア政府のミロシェヴィッチ政権は強硬姿勢を崩さず、その非人道的な攻撃は国際批判を強め、99年にはアメリカ軍を主力とするNATO軍がセルビアを空爆するなど国際問題に拡大した。
 そのような中、2000年のセルビアの総選挙でにミロシェヴィッチ大統領が落選したのを機に、彼はハーグの国際特別法廷で裁判にかけられることになる。2005年からアハティサーリ国連特使の仲介により戦闘行為は停止され、アメリカ・ロシア・EUも加わって解決が模索されることとなった。07年にはコソヴォ独立案が国連安保理でも審議されたが、ロシアの反対で成立しなかった。

コソヴォの独立宣言

 2008年2月17日、コソヴォは一方的にセルビア共和国からの分離独立を宣言した。このコソヴォ共和国に対してロシア、セルビアは未承認であるが、アメリカや日本などはまず承認し、現在までに国連加盟国の半数以上が承認している。しかし国連には未加盟である。セルビア配膳として独立を認めず、その地は一州に過ぎないという立場であり、ロシアも同調している。またスペインや中国のように国内に少数民族問題を抱えている国も、コソヴォの承認が自国内の少数民族に独立の口実を与えることを避けてか、まだ承認していない。
 面積は約1万平方キロメートル、人口は約200万。首都はプリシュティナ。民族、言語はアルバニア人でアルバニア語。宗教はイスラーム教。少数のセルビア系住民はセルビア語を話し、セルビア正教を信仰している。政治形態は一院制の共和政。1999年以来のNATO主体のコソヴォボ国際安全保障部隊(KFOR、約1万6千名)が現在も駐留を続けている。

なぜセルビアはコソヴォの独立を許さないか

Kosovo 国旗
コソヴォの国旗
 その背景には長い歴史がある。まずコソヴォの地は現在でこそアルバニア系住民が多く、セルビア人は少数派になっているが、かつてはセルビア王国の発祥の地と言われ、セルビア人にとっては故郷のように考えている。ところがオスマン帝国がバルカンに進出してきたので、1389年にこの地でセルビア王国はそれを迎え撃って「コソヴォの戦い」となった。そして戦いに敗れ、コソヴォはオスマン帝国領に編入され、結局オスマン帝国の領土はハンガリーまで伸びていくことになった。つまり、セルビアにとってはコソヴォ地方は民族の原点であり、譲れない土地と認識されている。またセルビア共和国にはその北部に、ヴォイヴォディナ自治州を抱えており、そちらの独立運動に火がつくことも恐れている。

なぜコソヴォにアルバニア人が多いのか

 ハプスブルク帝国は「軍制国境地帯」でオスマン帝国への防衛に当たらせるため、コソヴォの住民に対しドナウ川を越えてハプスブルク帝国領内に移住することを呼びかけ、多くのセルビア人が移住した。セルビア人がいなくなったところにムスリムのアルバニア人が移住してきて住むようになったのである。この地が再びセルビア領となったのは、ようやく1913年、第1次バルカン戦争でオスマン帝国に勝利したセルビア王国(近代)が奪回した(ただし、半分はモンテネグロ領とされた)時である。
 セルビアは第一次世界大戦後に成立したユーゴスラビア王国に加わったのでコソヴォもその一部となり、スラヴ化が進められたが、マケドニア人はそのまま残り、第二次世界大戦中にはイタリアのアルバニア併合により、その保護下に入った。そのときはアルバニア人によるセルビア人虐殺が起こっている。
 第二次世界大戦後はユーゴスラヴィア連邦を構成するセルビアの中の一つの自治州となった。コソヴォ自治州内ではセルビア人は少数であったが政治・経済の面で優位に立ち、マケドニア人住民は貧困層が多く、経済的格差も不満の要因の一つになった。いずれにせよ、アルバニア人にとっても14世紀末以来の居住の歴史があり、一方のセルビア人にとっても譲れない感情がある。<柴宜弘『ユーゴスラヴィア現代史』1996 岩波新書/同『図説バルカンの歴史』2001 河出書房新社 p.159-162 などによる>

NewS セルビアとコソヴォ、経済正常化

 2020年9月4日、セルビアとコソヴォ(コソボ)はアメリカのトランプ大統領の仲介により両国の経済関係を正常化することで合意した。同時にアメリカの仲介でコソヴォとイスラエルが国交を樹立した。セルビアは2008年のコソヴォの独立を承認しておらず、完全な国交樹立には至っていない。今回の合意の内容も詳細は不明であるが両国間の道路や鉄道の整備、国境検問所の開放など経済発展に必要な措置を取って、アメリカからの投資を促進することなどにあると思われる。またトランプ大統領にとってはコソヴォとイスラエルとの国交を仲介したことで、11月の大統領選挙への国内の親イスラエル勢力へのアピールとすることを狙ったものであろう。しかし、セルビアのブチッチ大統領は「この合意は相互承認を含んでいない」と強調しており、コソボ承認に向かうかどうかは不透明だ。<朝日新聞 2020/9/6>
印 刷
印刷画面へ
書籍案内

柴宜弘
『ユーゴスラヴィア現代史
新版』
2021 岩波新書

柴宜弘
『図説バルカンの歴史』
2006 ふくろうの本
河出書房新社