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ペニシリン/フレミング

1928~29年、イギリスの細菌学者フレミングが、カビから抽出した最初の抗生物質。第二次世界大戦中に実用化され、現代医学の進歩に大きく寄与した。

フレミング、偶然の発見

フレミング

Alexander Fleming 1881-1955

 ロンドンのセント・メリー病院医学校のアレクザンダー=フレミング教授(1881~1955)は、1928年7月の或る日、ベトリ皿といわれる平たい皿にゼリー(肉汁を固めたもの)をいれ、できもののうみからとった細菌を植え付け、培養する実験をしていた。ペトリ皿はぴったりとふたをし、外から雑菌が入ることを防がなければならないが、時として空気中を浮遊するカビの胞子が入り込んでしまうことがある。フレミングはゼリーの上にカビがつくと、そのまわりには細菌が広がらないことに気付いた。カビのまわりには何もない空間ができていた。彼は、そのカビが特別な物質をつくり出し、それがまわりにしみ広がって細菌の成長を阻止したのではないかと推理した。彼はそれ以前にこのような働きをするカビを見たことがなかったので、稀なカビではないかと考えて調べたところ、ペニシリウム(青カビ)という大変大きな種族に属する稀な変種であることを突き止めた。
 次の仕事は、そのカビがどんな種類の細菌に対してどんな効果を及ぼすかをつきとめることだった。彼は病気の細菌を肉スープのゼリーにうえつけ、カビの胞子を加えるという方法で実験を繰り返した。そしてカビが作用する細菌とそうでない細菌があることが判明した。
 フレミングはカビに特定の細菌の働きを抑える物質が含まれていると考え、その物質を取り出すことに取り組んだ。今度はカビをゼリーではなく液体の肉スープで育ててからスープだけを分け、その液を細菌のコロニーに加えたところ、液はカビそのものと同じように細菌に作用した。こうして彼はカビが生産する物質は肉スープに溶けることを知った。
 これは大変な発見だった。なぜなら彼は細菌の繁殖を妨げる液体を手に入れたのであるから。そういう液を今では抗生物質と呼んでいる。英語ではアンチビオチックで、これはアンチ(対抗する)とビオス(生物)の二語から来ている。この特別な溶液を彼はペニシリン溶液と名付けた。カビのペニシリウムから取れる物質に、植物からとれる薬にには「イン」で終わる名をつける慣例によってだった。
 ペニシリン溶液は人間の血液に注射しても危険が無いことがわかり、皮膚病などに効果があることが確かめられた。フレミングは生きたカビを保存し、使うたびに必要な分量を繁殖させていたが、溶液からペニシリンを分離することはついに出来なかった。ペニシリンは何かの処理を加えるとすぐ別なものに変わってしまうと言う性質があったので、その後も長い間、研究は進まなかった。

戦争が生んだペニシリンの実用化

 1938年になってオックスフォード大学のフローリー教授(1898~1968)はペニシリン溶液の研究を始めていたが、1939年になって第二次世界大戦が勃発すると、病原菌の成長を阻止する物質の研究が差し迫って必要となった。戦場で傷口に細菌が感染して死亡する率が高かったからである。フローリーは助手と共に肉スープからわずかのペニシリンを分離することに成功し、1941年6月に入院中の6人の患者で試してみた。治療はうまくいったが2人は用意したペニシリンを使い切ってしまったため死亡した。課題は大量に生産することであることが明白になった。
 その年の終わりにアメリカに渡ったフローリーは、多くの科学者と製薬会社の協力でペニシリンを大量に分離する方法を発見し、間もなく広く利用されるようになり、ジフテリア・肺炎・敗血症・咽喉カタルなどの病気や、外科医が手術の時の感染や化膿を防ぐために利用されるようになった。<以上はサトクリッフ/市場泰男訳『エピソード科学史Ⅲ』生物・医学編 1972 現代教養文庫 p.96-104 による>

ペニシリンと戦場

 1942年には、アメリカとイギリスでペニシリン研究は「国家機密」に指定された。その後に投入された研究資金は総計2400万ドルといわれ、戦時中の科学研究として、原爆開発を行った「マンハッタン計画」に次ぐものだった。こうして量産が可能になると、一般にもペニシリンの使用が増え始め、「奇跡の薬」の名声は日増しに高まった。1944年6月、「史上最大の作戦」といわれたノルマンディー上陸作戦が行われ、ペニシリンはその真価を遺憾なく発揮した。運ばれてくる戦傷者は、ペニシリンのおかげでほとんどガス壊疽や敗血症を起こすことなく、無事回復した。それまでの戦場の常識は一変し、フレミングは英雄として祭り上げられ、1945年、フレミングは、ペニシリンの精製に成功したフローリーとチェーンとともにノーベル賞(医学生理学賞)を受賞した。<佐藤健太郎『世界史を変えた薬』2015 講談社現代新書 p.139-140>

Epsode チャーチルは二度救われた?

 ペニシリンをめぐってはいろいろな「神話」がある。フレミングがイギリス首相ウィンストン=チャーチルの命を二度救ったと言うのもその一つ。チャーチルが少年時代、、沼にはまって溺れかけたところに、偶然通りかかったフレミング青年が助け、恩義を感じたチャーチルの父がフレミングの学費を援助し、それによってフレミングは医者になれた。そして1943年に肺炎にかかったチャーチルはフレミングが発見したペニシリンによって一命を取り留めたというものだ。
 しかし実際にはチャーチルはフレミングの7歳年上であり、チャーチルの肺炎を治療したのはサルファ剤であったから「でたらめ」である。どうやら、フレミングがアメリカで賞を受けた際に、ヴィンソン財務長官がスピーチの中で触れたのが最初で、それがもっともらしい話として世界中に広がったのだという。<佐藤健太郎『前掲書』p.142>
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サトクリッフ/市場泰男訳
『エピソード科学史Ⅲ』
生物・医学編
1972 現代教養文庫

佐藤健太郎
『世界史を変えた薬』
2015 講談社現代新書