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チャップリン

1920年代の無声映画から、戦後の40年代まで活躍した喜劇役者であり、映画作家。「喜劇王」といわれたが、その作品は鋭い社会、政治批判であった。

 無声映画期から、戦後まで最も広く知られた喜劇映画作家、俳優。イギリス出身だが、1913年にアメリカに渡り、ハリウッドで喜劇俳優となった。無声映画時代にさまざまなドタバタ喜劇をつくり、映画の可能性を一気に広げた。
 その視点は次第に社会と政治をするどく風刺する作風となり、21年『キッド』、25年『黄金狂時代』、31年『街の灯』、36年『モダンタイムス』などで名声を高めた。特に40年『独裁者』ではヒトラーを風刺した。戦後も47年『殺人狂時代』、52年『ライムライト』、57年『ニューヨークの王様』、などの傑作を発表したが、ハリウッドのマッカーシズム(赤狩り)を嫌ってアメリカを離れ、晩年はスイスで過ごした。

誕生日が4日違うチャップリンとヒトラー

 チャーリー=チャップリンは1889年4月16日、ロンドンの貧民街で生まれた。同じ週の20日、オーストリアのブラウナウ・アム・マインでアドルフ=ヒトラーが生まれた。“20世紀でもっとも愛された男ともっとも憎まれた男が、わずか4日違いで誕生した。”<大野裕之『チャップリンとヒトラー メディアとイメージの世界大戦』2015 岩波書店 プロローグ>
 51年経って、共通点はちょび髭だけであった二人は、歴史を創る二人の天才として世界に君臨した。1940年6月23日早朝、ヒトラーは征服者としてパリに到着した。そのニュースが流れた翌日、チャップリンはハリウッドで『独裁者』のラストシーンの撮影準備に入った。ラストシーンの最初の構想は、ドイツ兵が武器を捨てユダヤ人と一緒に皆で踊る平和の到来であり、すでに何度か撮影も試みられていた。しかし、チャップリンは自らのアイディアに納得できず、ラストシーンを作り替えた。それが最後の6分間に及ぶ、ヒトラーに間違えられた靴屋が堂々と演説するシーンだ。
 当時まだ中立国だったアメリカでヒトラー批判の映画を作ることには反対も多かった。その頃のアメリカにはヒトラーを「ドイツを苦境から救った力強い指導者」と英雄視する傾向もあり、一方で反ユダヤ主義も根強く、チャップリンにはさまざまな批判や圧力が加えられていた。しかしチャップリンは脅迫や反対する声に従わず、たった一人、戦う決意でキャメラの前に立った。
 そのような家庭で作られたのがチャップリンの『独裁者』という映画だった。<大野裕之『同上書』>