マッカーシー/マッカーシズム/赤狩り
1950年代のアメリカの共産主義あるいはその同調者に対する取り締まり運動。1950年から共和党員マッカーシーによって推進され、「赤狩り」があらゆる社会で猛威をふるった。1954年、議会でマッカーシー非難決議が可決され終息した。
・冷戦期のアメリカの1950年代初め、朝鮮戦争の時期のアメリカで、共和党の上院議員マッカーシー Joseph R. McCarthy によって行われた、反共産主義にもとづく政治活動、およびそれによって多数の政治家、役人、学者、言論人、芸術家、映画人などが親共産主義者として告発された動きのことを言う。政府内部ではニューディール時代からの民主党系の自由主義的な国務省のスタッフがその対象とされ、さらに陸軍やマスコミ、学者や言論人にその告発が及んでいった。
マッカーシーは、1950年2月20日、上院で演説を行い、国務省に共産主義者がいると警告を発した。そこから本格化した、執拗な共産主義者の摘発は、「赤狩り」と言われ、トルーマンもそれを黙認、「マッカーシー旋風」が吹き荒れて国民の不安を駆り立てた。追及の手は最初は国務省でニューディール政策を推進したスタッフに向けられ、彼らはソ連シンパであるとして排除され、さらにマーシャル前国務長官にも及んだ。マーシャルは朝鮮戦争で原爆の使用を主張したマッカーサーの解任をトルーマン大統領に進言したことが、共産勢力に利することになったとして右派から攻撃されていた。その告発は、政府内だけでなくその周辺にも及び、国務省の外交政策に関わった中国学者オーエン=ラティモア(蔣介石の政治顧問だったこともある)や、原子爆弾の開発に携わった物理学者オッペンハイマー(水素爆弾開発には反対していた)などの学者などもヤリ玉に挙げられた。
告発はその時点での活動ではなく、過去において社会主義や共産主義を容認するような行動や発言をしたことを問題にされたので、現職の官僚や学者も安閑とはしていられなかった。また、共和党・民主党の双方の議員の中にもマッカーシーの活動を支援する動きが生まれ、またマスコミの多くもセンセーショナルに取り上げたので、“赤狩り”の風潮は全米に広がった。1920年代から活動していたアメリカ共産党は、1954年に非合法化され、実質的な活動を停止した。
マッカーシズムは次の共和党アイゼンハウアー大統領の時期にも続いたが、1953年7月に朝鮮休戦協定が成立し、共産主義への脅威が後退するにつれて、マッカーシーの強引なやり方は徐々に反発を受けるようになり、1954年12月に上院がマッカーシー非難決議を可決し、ようやく沈静化した。かつてはその僚友として反共産主義の運動で活躍していた副大統領ニクソンも、そのころはマッカーシーの摘発は行き過ぎており、根拠がないとして離れていた。しかし、その後もアメリカでは共産主義を自由主義社会にとって危険な思想として排除しようという動きは永く続き、特にニクソン、レーガン、ブッシュ、トランプという共和党政権に共通する傾向となっている。
特にハリウッドの映画産業の中にソ連のプロパガンダが入り込んでいる、という告発が行われ、国民の関心が一挙に高まった。民主党のトルーマン政権も自己の疑惑を払うため積極的に共産主義の弾圧に動き、連邦公務員に「忠誠」審査を強行し、212人を解雇、2000人以上の辞職者を出した。FBIも共産主義の摘発に動き、50年に共産党員のローゼンバーグ夫妻(ドイツ生まれの核物理学者)をソ連のスパイとして告発し、真相究明されないまま夫妻は翌年死刑となった。この風潮の中で出てきたのがマッカーシーによる国務省内部の共産主義者を告発すると言う動きだった。<有賀夏紀『アメリカの20世紀』下 中公新書 2002 p.19>
彼は何もので、何をしたのか マッカーシーはウィスコンシン州選出米上院議員で「多くの点でアメリカが生んだもっとも天分豊かなデマゴーグだった。われわれの間をこれ程大胆な扇動家が動きまわったことはかつてなかった――、またアメリカ人の心の深部にかれくらい的確、敏速に入りこむ道を心得ている政治家はいなかった」と評価(?)し、アリストパネスやトゥキジデスを援用し、ギリシアのデマゴーゴスについて述べている。
マッカーシーは1946年にウィスコンシン州の上院議員の座を名門のラフォレット・ジュニアと争い、当選してワシントンにやってきたが、中央の政界で知られることになったのは1950年2月のことだった。
マッカーシ、上院で演説
上院ではマッカーシーの議会発言の真偽を検討するタイディングス議員を委員長とする委員会が設けられた。その席上でマッカーシーは2件を実名入りで告発した。その一人がジョンズホプキンス大学の歴史学教授オーエン=ラティモア教授だった。マッカーシーはラティモアは共産主義者で国務省でソ連に向けてのスパイ活動をしている、と告発した。ラティモアは中国研究の第一人者として知られ、国務省の中国担当者もその著作を読んでいた。たしかに30~40年代には共産主義シンパであったが、彼はジャーナリストとして政治的発言をすることはあってもあくまで学者であり、国務省の職員になったこともなかった。彼がソ連のスパイだったことは結局証明されなかったが、疑惑が生じたという理由で、大学教授の職を失うことになった。<p.198-199>
タイディングス委員会はマッカーシーの告発には根拠がない、と結論づけた。マッカーシーの活動もこれで終わりかと思われたが、マッカーシーは新聞などマスコミを利用し、なおも発言を続けた。そして次期の議会選挙ではタイディングスが過去に共産主義者と接点があったという証拠写真をマスコミに流し、そのためタイディングスは落選してしまった。
トルーマン政権を追い詰める 上院の委員会でのマッカーシーの発言は、私は証拠の文書を持っているというばかりで実名を挙げたものではなかったが、時のトルーマン大統領、アチソン国務長官は対応に追われることとなり、結局世論の盛り上がりに推されて、国務省から共産党員でなくともそのシンパの疑いがある数人を辞めさせざるを得なかった。議員の中にもマッカーシーを信じ、協力するものも多かった。下院議員ジョン=ケネディもその一人だった。
1951年6月14日にはトルーマン大統領がマッカーサー将軍を解任したことを検討する上院の委員会で、突然、国防長官マーシャルをそのアジア政策が共産主義に利することになった、として批判した。マーシャルは中国特使と派遣された際、周恩来と会見し、アメリカは国共内戦に介入しないことを伝えたのは、ソ連のスターリンと意思疎通した上でのことで、反米的な裏切りだ、というものだった。それは中傷に過ぎなかったが、マーシャルは打ちのめされ、秋には辞任した。その後、国務長官アチソンは共産中国の承認や国連加盟承認を決して行わないと誓約した。これはマッカーシーの脅しが、アメリカ外交を動かした例であり、朝鮮戦争の講和を後退させるという結果となった。
アイゼンハウアー政権を脅かす 朝鮮戦争で手づまりとなった民主党政権は、1952年秋の大統領選挙でトルーマンの後継候補が共和党アイゼンハウアーに敗れた。アイゼンハウアー新大統領は国務長官にタカ派のダレスを据えて態勢を強めたが、マッカーシーに対しては礼儀知らずの与太者とみて無視しようとした。しかし側近の共和党員はマッカーシーを恐れていたので大統領の態度を改めさせた。事実、マッカーシーの共産主義者との接点をでっち上げて有力者を脅す手口は、共和党員に対しても容赦無くむけられていった。
陸軍をも攻撃 与党となったマッカーシーは政府業務委員会の委員長となり、権限と予算とスタッフを得た。その部下は「忠誠米国人地下組織」と名乗り、政府や軍隊の中に情報網をひろげていった。主任調査員に任命されたコーンは、秘密会に喚問するやり方で追究していった。ついに1954年には米陸軍内の共産党員の存在を告発するところまで行った。マッカーシーはいつものように具体的な証拠は示さず、陸軍長官以下の高官が調査を妨害していることを問題にした。マッカーシーの部下のコーンは、少佐に昇任することになっていたペレスという軍医が、かって左翼的な団体に参加していた事実をつきとめ、上官はそれを知っていながら昇進させようとしていることを唯一の事例として取り上げ、陸軍を攻撃した。
マッカーシー非難決議 マッカーシーの陸軍告発をうけて何度か公聴会が開かれたが、そこではマッカーシーの強引で違法な調査が次々と明るみに出され、マッカーシーは次第に追い詰められていった。1954年8月、フランダース議員が提案し、マッカーシーを上院侮辱、真実への侮辱、人民への侮辱を理由とする譴責決議案が出され、長時間の討議の結果、特別委員会を設けて新たな調査を行うことが決まった。特別委員会に出席したマッカーシーは、フランダースを老いぼれと罵り、フランダースはマッカーシーをヒトラーにたとえて非難した<p.297>。
1954年12月2日、上院は賛成67、反対22で「ウィスコンシン州選出上院議員マッカーシー氏の行為に関する決議」を採択した。それはマッカーシーが委員会にくりかえし侮辱を加えたことは、上院の伝統に反するなどとして非難する決議だった<p.298-300>。
晩年 非難決議は出されたがマッカーシーは上院議員のままであり、より自由に発言できるようになった。しかし、もはや政治的には力を失った状態となった。それまでマッカーシーを保護し、大統領・議会との調停役を務めていた副大統領ニクソンも関係を断ち、記者団に尋ねられると「王様には切り殺せない限り切りかかるのではない」という昔の格言を大統領に話した、と答えた。
さまざまなマッカーシズム論 マッカーシズム現象を観察する際、その個人ではなく「諸勢力」の産物だとする見方がある。オルソップ兄弟は「マッカーシズムは冷戦の副産物であった」と書いた。社会学者タルコット・パーソンズは「マッカーシズムは一部の既得権益分子に支持された運動であり、同時に上流階級に対する民衆の反抗である」と説明した。ピーター・ピレックは「マッカーシズムは20年間仮装服夜会を窓枠に鼻を押しつけて見ていた人々の復讐である」と書いた。ウォルター・リップマンとアーサー・M・シュレジンガー2世はマッカーシズムを30年代の孤立主義の復活と見た。サミュエル・リューベルはわれわれの第一次大戦への介入までさかのぼって、多数のアメリカ人がよいこと、悪いことすべての責任者と見なす人びとを罰しようとしたものだと解釈した。リチャード・ホフシュタッターは、その根は前世紀の中西部や南部のポピュリズムまでさかのぼると考えた。エドワード・R・マローはマッカーシーの経歴を回顧した有名なテレビ番組の中で、これらすべての分析に共通するものを次のように要約した。「カシウス※は正しかった。「ブルートゥスよ、なにも運勢が悪いんじゃない。ぼくら自身が悪いんだ。」」<p.345-346>
カシウス(カッシウス)とは、紀元前44年、ブルートゥスにカエサルが皇帝になろうとしていると告げ、一緒にカエサルを暗殺した人物。
マッカーシーは、1950年2月20日、上院で演説を行い、国務省に共産主義者がいると警告を発した。そこから本格化した、執拗な共産主義者の摘発は、「赤狩り」と言われ、トルーマンもそれを黙認、「マッカーシー旋風」が吹き荒れて国民の不安を駆り立てた。追及の手は最初は国務省でニューディール政策を推進したスタッフに向けられ、彼らはソ連シンパであるとして排除され、さらにマーシャル前国務長官にも及んだ。マーシャルは朝鮮戦争で原爆の使用を主張したマッカーサーの解任をトルーマン大統領に進言したことが、共産勢力に利することになったとして右派から攻撃されていた。その告発は、政府内だけでなくその周辺にも及び、国務省の外交政策に関わった中国学者オーエン=ラティモア(蔣介石の政治顧問だったこともある)や、原子爆弾の開発に携わった物理学者オッペンハイマー(水素爆弾開発には反対していた)などの学者などもヤリ玉に挙げられた。
告発はその時点での活動ではなく、過去において社会主義や共産主義を容認するような行動や発言をしたことを問題にされたので、現職の官僚や学者も安閑とはしていられなかった。また、共和党・民主党の双方の議員の中にもマッカーシーの活動を支援する動きが生まれ、またマスコミの多くもセンセーショナルに取り上げたので、“赤狩り”の風潮は全米に広がった。1920年代から活動していたアメリカ共産党は、1954年に非合法化され、実質的な活動を停止した。
マッカーシズムは次の共和党アイゼンハウアー大統領の時期にも続いたが、1953年7月に朝鮮休戦協定が成立し、共産主義への脅威が後退するにつれて、マッカーシーの強引なやり方は徐々に反発を受けるようになり、1954年12月に上院がマッカーシー非難決議を可決し、ようやく沈静化した。かつてはその僚友として反共産主義の運動で活躍していた副大統領ニクソンも、そのころはマッカーシーの摘発は行き過ぎており、根拠がないとして離れていた。しかし、その後もアメリカでは共産主義を自由主義社会にとって危険な思想として排除しようという動きは永く続き、特にニクソン、レーガン、ブッシュ、トランプという共和党政権に共通する傾向となっている。
マッカーシー
マッカーシー J.R.McCarthy (1908-57) アメリカの50年代の上院議員。冷戦さなかの1950年代はじめのアメリカで、マッカーシズムといわれる共産党活動あるいはその同調者を追及する運動を展開した政治家。ウィスコンシン州選出の上院議員で、冷戦下のアメリカでの共産主義思想の浸透を恐れ、その摘発と称して政府活動特別調査委員会を組織し、つぎつぎと告発を行った。しかし、その強硬な手段は次第に不信感を増殖させ、54年にその告発の根拠は無かったとして調査委員会委員長の地位を解任され、数年後にアル中で死亡した。太平洋戦争で活躍し日本占領を指揮したのはマッカーサー MacArthur (1880-1964)であるので注意。マッカーシズム以前の赤狩り
マッカーシズムの嵐が吹きまくった1950年代はじめよりも前、大戦直後の冷戦の進行の中で、マスコミなどでも共産主義の脅威が宣伝され、いわゆる「赤狩り」が始まっていた。その結果、1945年には10万人近くの党員がいたアメリカ共産党は、10年間に4分の1の数に落ち込んだ。その活動の中心となったのは下院に設けられた非米活動委員会(HUAC)であった。これは1938年に設置され、共産主義やファシズムのアメリカ浸透を調査するものであったが、46年から共和党保守派(中心人物は後の共和党大統領ニクソン)の主導下に置かれ、民主党が共産主義を許容しているという攻撃が始まった。48年にはニクソンが国務省職員のアルジャー=ヒスをソ連のスパイとして告発、裁判で有罪となり国内に警戒心が高まっていた。特にハリウッドの映画産業の中にソ連のプロパガンダが入り込んでいる、という告発が行われ、国民の関心が一挙に高まった。民主党のトルーマン政権も自己の疑惑を払うため積極的に共産主義の弾圧に動き、連邦公務員に「忠誠」審査を強行し、212人を解雇、2000人以上の辞職者を出した。FBIも共産主義の摘発に動き、50年に共産党員のローゼンバーグ夫妻(ドイツ生まれの核物理学者)をソ連のスパイとして告発し、真相究明されないまま夫妻は翌年死刑となった。この風潮の中で出てきたのがマッカーシーによる国務省内部の共産主義者を告発すると言う動きだった。<有賀夏紀『アメリカの20世紀』下 中公新書 2002 p.19>
マッカーシズムとハリウッド
赤狩りの風潮は映画産業の聖地ハリウッドに最も強い影響を及ぼした。たとえばチャップリン(『町の灯』『ライムライト』『独裁者』)、ジョン・ヒューストン(『黄金』『白鯨』など)、ウィリアム・ワイラー(『ローマの休日』『ベン・ハー』など多くの映画人が思想統制に反対し、ハリウッドを去った映画人も多かった。マッカーシズムが本格化してからも、ヘンリ・フォンダ、グレゴリ・ペック、ハンフリー・ボガートら有名俳優も含めて抵抗する者も多かった。その一方ではマッカーシズムに協力したと後に指弾された人もいる。メキシコ革命の農民指導者サパタを描いた『革命児サパタ』や、ジェームズ=ディーンのデビュー作『エデンの東』などで知られるエリア=カザンもその一人だった。スターの中にはゲイリー・クーパー、ジョン・ウェイン、クラーク・ゲイブルのようにマッカーシズムを支持する者もいた。Episode Good Night and Good Luck
マッカーシズムの追及はマスコミにもおよび、反政府的な言動や、共産党に同調するような発言をした放送人も次々と会社を辞めさせられていった。そのような状況を言論の自由の危機であると感じた一人が、CBS放送の人気ニュースキャスター、エド=マローだった。彼はプロデューサーのフレッド=フレンドリーらのスタッフと組んでマッカーシー上院議員の調査法や追及の誤りと矛盾を番組で取り上げる。さまざまな圧力が彼らに加えられ、マッカーシー自身も反論する。このマスコミの言論の自由の危機と闘った一人の男を取り上げた映画が、2005年製作、ジョージ=クルーニーが監督主演した『Good Night and Good Luck』、この言葉はエド=マローが番組の最後にいつも言っていたことば。映画は当時のニュースフィルムを多用して、緊迫したドラマとなっている。バックに流れるダイアン=リーブスのジャズも50年代の雰囲気を盛り上げる、いい映画です。白黒93分。蛇足 ガーシー? いやマッカーシーです
マッカーシー、及びマッカーシズムは、1950年代初頭の中国共産党による中華人民共和国の建国、朝鮮戦争といったアジア情勢の緊迫を背景にして、議会政治と言論の自由というアメリカ民主主義の根幹が、一人の煽動政治家によって揺るがされた「騒動」だった。2020年代の今思うと、アメリカで起こったトランプ旋風という現象の雛形、もしくは原型だったような気がする。また、昨今の日本にも、煽動的な言動でマスコミに訴え、選挙で当選してしまうと言う現象が見られる。ガーシー現象の元祖はマッカーシーだ、と洒落ている場合ではない。約70年前のアメリカで起こった政治的混乱を、今思い返すことは必要だと思われる。参考 R.H.ロービア『マッカーシズム』より
マッカーシーについて手近に知ることができるR.H.ロービアの『マッカーシズム』から要約、引用しながら見ていこう。ロービア(1915~1979)はアメリカのジャーナリストで『ニューヨーカー』誌などを舞台に、第二次世界大戦からベトナム戦争を取材、マッカーシーが活躍した時期には何度も直接会って取材した。本書はマッカーシーの死後まもない1959年に発表された、同時代の生き生きとしたルポルタージュである。<R.H.ロービア/宮地健次郎訳『マッカーシズム』1984 岩波文庫>彼は何もので、何をしたのか マッカーシーはウィスコンシン州選出米上院議員で「多くの点でアメリカが生んだもっとも天分豊かなデマゴーグだった。われわれの間をこれ程大胆な扇動家が動きまわったことはかつてなかった――、またアメリカ人の心の深部にかれくらい的確、敏速に入りこむ道を心得ている政治家はいなかった」と評価(?)し、アリストパネスやトゥキジデスを援用し、ギリシアのデマゴーゴスについて述べている。
マッカーシーは1946年にウィスコンシン州の上院議員の座を名門のラフォレット・ジュニアと争い、当選してワシントンにやってきたが、中央の政界で知られることになったのは1950年2月のことだった。
(引用)1950年の初め頃は、マッカーシーはウィスコンシン州以外の世間の人にとってはとるにたらぬ人間であった。ウィスコンシン州ではかれは下品で大げさな身振りの、公共の利益にいいかげんな態度で臨む安っぽい政治家として知られていた。……そして、1950年2月9日、マッカーシーはウェストバージニア州のウィーリングで演説をし、この演説の中で、国務省には共産主義者がうよいよしており、自分も国務長官もその名前を知っていると言った。後日、マッカーシーは共産主義者が205人と言ったか、81人、57人、それとも「多数の」と言ったかということで若干の論争があったが(かれがなにか言うと必ず論争があった)、「国務長官にも知られている」共産主義者が「今もなお勤務し、政策をたてている」、これは事実だとかれが主張したのに比べれば、数はどうでもよかった。ただちにこの驚くべき発言を調査するために上院委員会が設けられた。……3月、4月、そして5月、この間極東では朝鮮戦争のために共産主義勢力が動員されつつあったわけだが、この間のワシントンの生活、米国の政治生活はおおむね、アメリカ外交が反逆者の手に握られているかどうかを決定するのが大問題といった感があった。<R.H.ロービア/宮地健次郎訳『マッカーシズム』1984 岩波文庫 p.13-14>マッカーシズム マッカーシーのウェストバージニアでの演説はマスコミに注目され、たちまち「マッカーシズム」という言葉が生まれた。もっともそれはいわれ無き名誉毀損あるいは中傷、といった悪口として用いられていた。マッカーシズムという言葉は次第に一部の同調者には愛国主義を意味するようになり、多数のアメリカ人には狭量、抑圧的、反動的、反啓蒙主義、反知性的、全体主義的、あるいは単に下品がものなどが混じった、名状しがたい悪を思わせる言葉となっていった。<R.H.ロービア『前掲書』p.15>
マッカーシ、上院で演説
(引用)上院における(1950年:引用者注)2月20日の演説は代議政治史上もっとも狂気じみたものに数えられる光景を現出した。午後もおそくなって三つの鐘の召集ベルが鳴り、世人がよく世界最大の審議機関と呼ぶ――そう呼ぶだけの理由もなくはないが――米上院のいあわせたメンバーがマッカーシーの途方もない、そして途方もなく変転する言い分を審査するために入場した。指定の時刻にマッカーシーはトレードマークともなるふくらんだ書類鞄をわしづかみにして現れた。マッカーシーは割合率直な調子で話し始めた。「私は今夜、将来論ずる幸運に恵まれであろういかなる問題よりもはるかに私にとって切実な問題について論じたいと思う。」そして言った、自分は「トルーマンの秘密の鉄のカーテン」を突き破ったのでありここに氏名は明らかにせずに81のケースを提示したいと思うと。81は新しい数字であった。・・・<R.H.ロービア『前掲書』p.172->マッカーシーの演説は深夜まで及んだが、205といっていた数字が81にかわったばかりか、個々の根拠は疑わしいものばかりだった。議員のほとんどはうんざりした態であったが、翌日の新聞は詳細には触れずにマッカーサーが国務省の闇を暴いたと報じ、国民は喝采し、マッカーシーを支持する団体が現れ、企業家は資金提供を申し出た。
上院ではマッカーシーの議会発言の真偽を検討するタイディングス議員を委員長とする委員会が設けられた。その席上でマッカーシーは2件を実名入りで告発した。その一人がジョンズホプキンス大学の歴史学教授オーエン=ラティモア教授だった。マッカーシーはラティモアは共産主義者で国務省でソ連に向けてのスパイ活動をしている、と告発した。ラティモアは中国研究の第一人者として知られ、国務省の中国担当者もその著作を読んでいた。たしかに30~40年代には共産主義シンパであったが、彼はジャーナリストとして政治的発言をすることはあってもあくまで学者であり、国務省の職員になったこともなかった。彼がソ連のスパイだったことは結局証明されなかったが、疑惑が生じたという理由で、大学教授の職を失うことになった。<p.198-199>
タイディングス委員会はマッカーシーの告発には根拠がない、と結論づけた。マッカーシーの活動もこれで終わりかと思われたが、マッカーシーは新聞などマスコミを利用し、なおも発言を続けた。そして次期の議会選挙ではタイディングスが過去に共産主義者と接点があったという証拠写真をマスコミに流し、そのためタイディングスは落選してしまった。
トルーマン政権を追い詰める 上院の委員会でのマッカーシーの発言は、私は証拠の文書を持っているというばかりで実名を挙げたものではなかったが、時のトルーマン大統領、アチソン国務長官は対応に追われることとなり、結局世論の盛り上がりに推されて、国務省から共産党員でなくともそのシンパの疑いがある数人を辞めさせざるを得なかった。議員の中にもマッカーシーを信じ、協力するものも多かった。下院議員ジョン=ケネディもその一人だった。
1951年6月14日にはトルーマン大統領がマッカーサー将軍を解任したことを検討する上院の委員会で、突然、国防長官マーシャルをそのアジア政策が共産主義に利することになった、として批判した。マーシャルは中国特使と派遣された際、周恩来と会見し、アメリカは国共内戦に介入しないことを伝えたのは、ソ連のスターリンと意思疎通した上でのことで、反米的な裏切りだ、というものだった。それは中傷に過ぎなかったが、マーシャルは打ちのめされ、秋には辞任した。その後、国務長官アチソンは共産中国の承認や国連加盟承認を決して行わないと誓約した。これはマッカーシーの脅しが、アメリカ外交を動かした例であり、朝鮮戦争の講和を後退させるという結果となった。
アイゼンハウアー政権を脅かす 朝鮮戦争で手づまりとなった民主党政権は、1952年秋の大統領選挙でトルーマンの後継候補が共和党アイゼンハウアーに敗れた。アイゼンハウアー新大統領は国務長官にタカ派のダレスを据えて態勢を強めたが、マッカーシーに対しては礼儀知らずの与太者とみて無視しようとした。しかし側近の共和党員はマッカーシーを恐れていたので大統領の態度を改めさせた。事実、マッカーシーの共産主義者との接点をでっち上げて有力者を脅す手口は、共和党員に対しても容赦無くむけられていった。
(引用)1953年にはジョー・マッカーシーのことを思い浮かべるだけでホワイトハウスは足が震え、行政府全体をパニックが走りぬけるほどになっていた。私はこの年の中頃大統領補佐官の一人を訪ねたことを覚えている。この人は今もそうだが、その頃も勇気と率直さで優に平均以上の人だと思われた。……私たちは愉快に話し合った。そして、おしまい頃になって私は第一級の話題を持ち出した。……マッカーシーの名を出したとたんに、かれの態度、表情は一変した。かれは椅子から飛び上ったり、手を合わせたりはしなかったものの、比喩的にいえば、そしてその顔色は文字通りに、哀願の態度を帯びた。……「それはやめてくれ」とかれは言った。「頼むから、どうかそのことは私にいわせないでくれ。いまはだめだ。……これだけは聞かないでくれ。なぜ私が話したくないかをきくこともしないでくれ。……」私は後にも先にも責任ある地位にいるおとなの人間がこのように振舞うのを見たことがない。<R.H.ロービア『同上書』p.25-26>アイゼンハウアー政権は最初の4ヶ月間に1456人の連邦政府職員を解雇、1年目の終わりまでに2200人を解雇した<p.27>。1954年1月のギャラップ世論調査では、国民の50%がマッカーシーに「好感」をもっていると答えた<p.34>。ほとんどの人がマッカーシーはまだ証拠を出してないが政府の慌てた様子を見て、何かもっと大きなことを知っているに違いないと思っていた。
陸軍をも攻撃 与党となったマッカーシーは政府業務委員会の委員長となり、権限と予算とスタッフを得た。その部下は「忠誠米国人地下組織」と名乗り、政府や軍隊の中に情報網をひろげていった。主任調査員に任命されたコーンは、秘密会に喚問するやり方で追究していった。ついに1954年には米陸軍内の共産党員の存在を告発するところまで行った。マッカーシーはいつものように具体的な証拠は示さず、陸軍長官以下の高官が調査を妨害していることを問題にした。マッカーシーの部下のコーンは、少佐に昇任することになっていたペレスという軍医が、かって左翼的な団体に参加していた事実をつきとめ、上官はそれを知っていながら昇進させようとしていることを唯一の事例として取り上げ、陸軍を攻撃した。
マッカーシー非難決議 マッカーシーの陸軍告発をうけて何度か公聴会が開かれたが、そこではマッカーシーの強引で違法な調査が次々と明るみに出され、マッカーシーは次第に追い詰められていった。1954年8月、フランダース議員が提案し、マッカーシーを上院侮辱、真実への侮辱、人民への侮辱を理由とする譴責決議案が出され、長時間の討議の結果、特別委員会を設けて新たな調査を行うことが決まった。特別委員会に出席したマッカーシーは、フランダースを老いぼれと罵り、フランダースはマッカーシーをヒトラーにたとえて非難した<p.297>。
1954年12月2日、上院は賛成67、反対22で「ウィスコンシン州選出上院議員マッカーシー氏の行為に関する決議」を採択した。それはマッカーシーが委員会にくりかえし侮辱を加えたことは、上院の伝統に反するなどとして非難する決議だった<p.298-300>。
晩年 非難決議は出されたがマッカーシーは上院議員のままであり、より自由に発言できるようになった。しかし、もはや政治的には力を失った状態となった。それまでマッカーシーを保護し、大統領・議会との調停役を務めていた副大統領ニクソンも関係を断ち、記者団に尋ねられると「王様には切り殺せない限り切りかかるのではない」という昔の格言を大統領に話した、と答えた。
(引用)マッカーシーは支持者を失ってはいなかった。陸軍対マッカーシー公聴会におけるその言動は多数のアメリカ人にとって不愉快極まるものであったし、世論調査はマッカーシーに好感を抱く人の数(同年の初めは50%)が激減していることを示していた。しかし、これは致命的なものではなかった。煽動政治家が人の心のうつろい易いことを知らないで、何を知っているといえよう。結局のところ、いつもこれにつけ込むのである。本当の支持者たち――マッカーシー主義者――は公聴会でのマッカーシーの役割に胸をおどらせていた。かれらは大言壮語の崇拝者であり、親分は改めて大言壮語家の中のカルーソー(注・有名なオペラ歌手)たることを立証したのである。<R.H.ロービア『同上書』p.306>マッカーシーはその後も議員活動を続けたが、注目を浴びることもなく、飲酒と持病のため次第に衰え、1957年5月2日、メリーランド州ペセスダの病院で死去した。現役議員だったので、葬儀は上院議場で盛大に行われた。
さまざまなマッカーシズム論 マッカーシズム現象を観察する際、その個人ではなく「諸勢力」の産物だとする見方がある。オルソップ兄弟は「マッカーシズムは冷戦の副産物であった」と書いた。社会学者タルコット・パーソンズは「マッカーシズムは一部の既得権益分子に支持された運動であり、同時に上流階級に対する民衆の反抗である」と説明した。ピーター・ピレックは「マッカーシズムは20年間仮装服夜会を窓枠に鼻を押しつけて見ていた人々の復讐である」と書いた。ウォルター・リップマンとアーサー・M・シュレジンガー2世はマッカーシズムを30年代の孤立主義の復活と見た。サミュエル・リューベルはわれわれの第一次大戦への介入までさかのぼって、多数のアメリカ人がよいこと、悪いことすべての責任者と見なす人びとを罰しようとしたものだと解釈した。リチャード・ホフシュタッターは、その根は前世紀の中西部や南部のポピュリズムまでさかのぼると考えた。エドワード・R・マローはマッカーシーの経歴を回顧した有名なテレビ番組の中で、これらすべての分析に共通するものを次のように要約した。「カシウス※は正しかった。「ブルートゥスよ、なにも運勢が悪いんじゃない。ぼくら自身が悪いんだ。」」<p.345-346>
カシウス(カッシウス)とは、紀元前44年、ブルートゥスにカエサルが皇帝になろうとしていると告げ、一緒にカエサルを暗殺した人物。