詳説世界史 準拠ノート(最新版)
第7章 アジア諸地域の繁栄
2節 清代の中国と隣接諸地域
■ポイント 非漢民族である女真の建てた清は、どのように中国を統治したか。
A清 の中国統治 1644年 a 李自成の乱 で明滅亡。明朝の一部、華南に逃れる。- 山海関の守備にあたっていた明の将軍b 呉三桂 が清軍に投降。清軍を先導し、長城内に入る。
- 3代皇帝c 順治帝 、d 北京 に入城しa 李自成の乱 を平定して、盛京から遷都する。
解説
順治帝が北京に入ったときはわずか6歳で、実権は叔父の摂政ドルゴンがにぎっていた。ドルゴンは呉三桂など漢人部将を利用して統治すると同時に、明の制度をそのまま温存するなど同化をはかったが、一方で弁髪など満州人の習俗を漢人に強制するなど、統制を強めた。しかしこの段階では、鄭氏の支配する台湾など明の遺臣の活動もまだ活発だった。
→ 女真(満州)が建国した清朝が、中国本土の漢民族を支配することとなる。 - 南方には雲南のb 呉三桂 の他、広東、福建に漢人武将を配置しe 藩王 とする。=f 三藩
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B台湾 明代に福建省からの漢人の移住が増加。1624年にオランダ人が進出(先述)。- a 鄭成功 福建の海賊鄭芝竜と日本人女性の間に平戸に生まれる。武装海上集団を率い清に抵抗。
→ 明朝の復興を図り、明の遺王を助けたため朱姓を賜り、国姓爺(こくせんや)と言われる。 - 1661年 a 鄭成功 がオランダ人を駆逐しB 台湾 を占領。
→ ▲清はb 遷界令 を出す。沿岸住民を内陸移住させ、海上貿易を禁止。
C 康煕帝
解説
鄭成功の「国姓爺」とは明(朱元璋が建てた王朝)から朱という帝室の性=国姓を与えられた「旦那」という意味。日本人を母とする彼の活躍は鎖国後の日本でもよく知られており、1715年に近松門左衛門が浄瑠璃『国性爺合戦』を発表して大当たりした。しかし、実際には鄭成功の江戸幕府に対する支援要請は拒否され、鄭氏台湾はその死後、清に降伏する。
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C康煕帝 の統治 第4代皇帝 聖祖 1667年から親政。- 1673年 a 三藩の乱 藩王取り潰しに反発したb 呉三桂 らが反乱。
→ 広東の尚可喜・福建の耿継茂らが同調し、大規模な内乱となる。
→ 1681年 清朝が鎮圧に成功し、中国本土を統一。 - 1683年 海禁政策を強化してB 台湾 の鄭氏を倒し、直轄領とする。
- ロシアの進出を抑え国境を策定。モンゴルを親征、チベットに勢力を伸ばす。(下掲)
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D清朝の全盛期 18世紀- a 雍正帝 (在位1722~35) ・b 乾隆帝 (在位1735~95)の時代
- 皇帝:中国伝統の皇帝であるとともに北方遊牧社会の君主(ハン)として君臨し独裁的な権力を有した。
- 平常は北京のc 紫禁城 で政務を執り、夏は北方の離宮で過ごした(清朝前半まで)。
- 清朝の中国統治:科挙、官制、儒学の振興など明の制度を受け継いだ。
- 軍事制度:満州人のd 八旗 にモンゴル人、漢人を加えて三軍編制とし、要地に駐屯させる。
Text p.188
他に、漢人で組織するe 緑営 を設置。 - 中央官制の要職の定員はf 満・漢同数 とした。
- a 雍正帝 の時、皇帝直属の諮問機関としてg 軍機処 を置く。
→ 当初は軍事面の諮問機関であったが、後に内閣に代わる軍事行政上の最高機関となる。 - ▲地方制度:省・道・州(府)・県にわけ、省の統治に巡撫を、数省にまたがる統治には総督を派遣した。
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E 清の思想統制- 朝廷の編纂事業:字書=a 『康煕字典』 (b 康煕帝 の命令)
百科事典=c 『古今図書集成』 (d 雍正帝 の時に完成。)
叢書=e 『四庫全書』 (f 乾隆帝 の事業。)
→ 大規模な編纂事業を起こし、学者を優遇。その反面、反清的な言論は厳しく取り締まる。 - g 文字の獄 :反満・反清的な文字を使う書物を摘発しその作者を厳しく罰した。
同時にさかんにh 禁書 を行う。 - i 辮髪令 の発布:満州人の習俗を漢人に強要した。それ以外は長髪といわれ禁止。
- j 白蓮教 の弾圧:民間信仰は反権力になる恐れが多いとされ、弾圧された。
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- 異民族統治であるが、漢民族の文化的伝統と融合させ、巧みに中国を統治、19世紀初頭まで存続した。
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イ.清朝支配の拡大
■ポイント 清朝の支配はどの範囲まで広がったか。またどのような統治を行ったか。
A康煕帝 (在位1661~1722)- 1689年 ロシア(a ピョートル大帝 )と戦い、講和してb ネルチンスク条約 を締結。
→ 黒竜江(アムール川)上流アルグン川と外興安嶺(スタノヴォイ)山脈を国境とする。
c イエズス会士 が通訳として交渉に当たる。意義:d 中国が始めて締結した国際条約となる。 - モンゴル人オイラト系e ジュンガル 17世紀に強大化、外モンゴル、タリム盆地、チベットに進出。
- A 康煕帝 、外モンゴルに親征し、e ジュンガル を破る。支配を外モンゴルに及ぼす。
→ モンゴル人に信者の多いチベット仏教の本拠のチベットにも勢力を伸ばす。
解説
ジュンガルはもともと天山山脈の北側、イリを中心としたジュンガル盆地にいたモンゴル人のオイラト(土木の変のエセン=ハンが有名)の系統を引く遊牧民であったが、17世紀の前半にバートゥルに率いられて有力となり、その子ガルダンが天山山脈の南側のタリム盆地などに進出し、一大勢力となった。しかし、清の康煕帝が親征し、1697年にガルダンは敗れて自殺した。清に服属してからはジュンガル部(凖部)とも言われる。
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B雍正帝 (在位1722~35)- 1727年 a キャフタ条約 モンゴル方面のロシアとの国境を確定し通商規定を設ける。
→ ネルチンスク条約に次ぐ清とロシアの国境協定。(13章3節) - ▲辺境の少数民族に対し、現地の有力者による統治を改め、中央から役人を派遣する「改土帰流」を進める。
解説
「改土帰流」とは、辺境の少数民族(特に西南地方のミャオ族など)を統治する際、現地の有力者に統治を任せていたのを改め(改土)、中央から役人を派遣(流官)して直接統治する方式に改めることをいう。少数民族対策として明・清を通じて行われたが、特に雍正帝の時に進められた。
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C乾隆帝 (在位1735~95)- 1758年 タリム盆地に親征し、a ジュンガル を滅ぼす。
- 翌年、東トルキスタン(回部)のb ウイグル人 を制圧。
- 征服地をc 新疆 と命名し、藩部に組み入れる。
= 天山山脈の北のジュンガル盆地と南のタリム盆地を含む東トルキスタン。
意義:d 清朝の領土が最大となり、現在の中国の領域の原型となる。
C 乾隆帝
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D 清の領土統治- 皇帝の直轄領=中国内地およびa 東北地方(満州) とb 台湾 。
- 新たな征服地はc 藩部 としてd 理藩院 が統括。
=e モンゴル = 外と内に分かれる。モンゴル王侯を通じて支配。
f 新疆 = ウイグル人有力者(ベク)が現地を支配。中心地イリ。
g 青海 = チベット高原の東北。モンゴル人を通じて支配。
h チベット = 黄帽派チベット仏教の指導者i ダライ=ラマ が現地を支配。中心地ラサ。
→ 清朝は監督官を派遣するが現地の習慣や宗教には干渉せず。
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・18世紀 清朝の最大領域
藩部
a 外モンゴル
b 内モンゴル
c 新疆
d 青海
e チベット
重要地名
1 ネルチンスク
2 キャフタ
3 アイグン
4 イリ
5 ラサ
(3,4は後出)
※チベットの中国領土化
- a チベット仏教 :インドから伝来した仏教が、チベット土着のボン教と融合して成立。
→ 8世紀、吐蕃の国教となる。元の保護を受け、モンゴルにも拡大 → 明代に次第に堕落。 - b ツォンカパ の改革 14世紀末~15世紀始め 厳しい戒律を設ける。
旧来の諸教派を一括してc 紅帽派 というのに対し、改革派をd 黄帽派 という。
→ d 黄帽派 が次第に有力となり、この派の教主がチベットを実質的に支配するようになる。 - モンゴルのe アルタン による支配 16世紀後半 d 黄帽派 に帰依。
→ 教主にf ダライ=ラマ の称号を贈る(ダライは大海、ラマは師の意味)。
= g 活仏 とされ、その地位は転生(生まれ変わり)によって受け継がれる。
解説
ダライ=ラマは活仏(化身者、つまり仏の化身として生きている者)と信じられ、妻帯が許されないので、その地位は世襲ではなく、ダライ=ラマが生前に預言した方角でその死後1年間に生まれた幼児を転生者(生まれ代わり)として選んだ転生ラマに継承される。現在のダライ=ラマ14世は、中国によるチベット支配に抵抗してインドに亡命している。ダライ=ラマに対抗する存在であるパンチェン=ラマも同様に転生ラマが継承するが、こちらは現在はチベットに留まり、中国政府からその地位を保障されている。▲これに次ぐ高僧をパンチェン=ラマ(大学僧)という。 - 清朝の支配 18世紀 清朝はモンゴル人・チベット人の支持を得るためf ダライ=ラマ を利用。
→ a チベット仏教 を手厚く保護した。
チベットの中心地h ラサ には歴代ダライ=ラマの宮殿i ポタラ宮 が建設される。
解説
チベット仏教は、かつては「ラマ教」と言われたが現在は使われなくなっている。ラマとはチベット語で「師」とか「僧」の意味であるためである。
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ウ.清朝と東アジア
■ポイント 清朝を中心とした 東アジア(朝鮮・琉球・日本)の外交関係はどのように展開したか。
- 東アジア・東南アジア諸国の多くは 宗主国 である清朝とのa 朝貢貿易 を行う。
清朝はそれらの諸国をb 属国 として扱っていたが、周辺諸国にも次第に独自の国家意識が成長した。
- 科挙制度の中で、a 両班 が支配層を形成。文班と武班があった。
= b 儒学(朱子学)教の教養を有し、大地主・官僚として朝鮮の支配階級を形成した。 - 16世紀後半、c 党争 が激しくなる。朱子学内部の学派争いと結びつき、深刻化。
- 16世紀末 豊臣秀吉の朝鮮侵攻=d 壬辰・丁酉の倭乱 → 明の援軍で撃退するも、国土荒廃。
- 1637年 e 清 に服属し朝貢関係に入る。毎年、使節( 燕行使 )を派遣するようになる。
→ 政治的には服属するが、文化的には正統な中国文化の後継者を自認するf 小中華思想 が生まれる。
解説
中華思想は、漢民族の諸王朝が、周辺諸民族の文化を一段低いものと見て自らを世界の中心と位置づける思想であるが、中国に満州人の国家である清朝が成立すると、明を宗主国としてその文化を受けいれていた朝鮮では、儒学の正統な後継者は清ではなく、朝鮮であるという考えが起こった。それが小中華思想であるが、現実には朝鮮は清の武力侵攻を受け、それに従属した。朝鮮での「儒学」の影響力は両班層の存在と結びついてその後も強く、事大主義、保守主義が停滞をもたらした側面があった。→ 両班層の中で、儒教道徳がさらに強化されていく。
Text p.190
d 首里城 の守礼門
- 清を宗主国として朝貢を続けていた。
- 17世紀初め、薩摩のb 島津氏 の武力征服を受け服属する。
→ c 日本と中国への両属体制 をとる。 - 日中双方の要素を含む独自の文化が形成された。
d 首里城 が建設された。
- 1603年 江戸幕府を開いた徳川家康、朱印船貿易に乗り出す。(前出) → 倭寇の活動がなくなる。
- 1639年 a 鎖国政策 (前出)= 幕藩体制の一環としての、幕府による貿易の独占・外交の統制強化。
- b 長崎 での中国(清)・オランダとの貿易は続く。 オランダ商館は出島に移される。
- 対馬を通じてのc 朝鮮 との関係は続く。釜山に倭館を置き、交易。
Text p.191
→ 将軍代替わりごとを原則とした▲d 朝鮮通信使 の来日。 - 朱子学を中心とする儒学の隆盛 江戸幕府・諸大名による保護。 (林羅山 → 室鳩巣ら)
- 日本独自の文化もおこる。国学の発展(賀茂真淵 → 本居宣長ら)、歌舞伎、浮世絵など。
- 鎖国下の外国事情 出島のオランダ商館から▲e 和蘭風説書 の幕府への提出。
- 手工業の自立 生糸などの手工業産品の国産化、養蚕・綿花生産などの広がり → 幕藩体制の変質へ。
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エ.清代の社会と文化
■ポイント 清朝の支配下で中国社会はどのような変化が起こり、どのような文化がうまれたか。
1.清朝の貿易統制策の変化
A海禁の解除 背景 三藩の乱の平定・台湾の制圧により、清朝の支配安定が安定。
- 1684年 a 遷界令 を廃止し、海上交易の奨励に転じる。広州など4ヶ所に海関を置き、貿易を管理。
- 中国商人のb ジャンク船 による交易の活発化。それに伴い、ヨーロッパ商人の来航も多くなる。
→ 交易の内容 c 生糸・陶磁器・茶などを輸出し、その代価として銀(メキシコ銀)が流入した。 - d 南洋華僑 の増加:福建や広東の人々が禁令を犯し、貿易相手の東南アジア各地に移住していった。
解説
「南洋」とは中国南部の海岸地帯、つまり上海以南の福建省・広東省を意味する。上海以北の遼東半島までを「北洋」という。福建・広東は海上交易は盛んだったが、平地が狭く、人口増加を支えきれなかったため、海外に出て行き、華僑となるものが多かった。
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B乾隆帝 の貿易統制。- 1757年 ヨーロッパ船の来航をa 広州 1港に制限。
→ b 公行 (特許商人の組合)に交易を独占させる。 - このころヨーロッパでは、イギリスからc 産業革命 が始まる。 → 自由貿易の要求強まる。
→ 1793年 イギリス、使節マカートニーを派遣。公行の廃止などを要求。(後出)
→ 清朝は朝貢貿易の立場を崩さず、自由貿易を拒否。(後出)
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2.産業の発展と税制の変化
A生産力の向上 18世紀 清朝の政治の安定 → 人口の増加。
- 農業技術の向上 アメリカ大陸からa トウモロコシ 、b さつまいも(甘蔗) などの新作物が伝わる。
→ 山地の開墾進む。そのほか、タバコ・藍・落花生などのc 商品作物 の生産増える。
→ ▲清朝の中期から、茶、陶磁器、絹織物、綿織物などの分野で、d 工場制手工業 が始まる。
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B税制の変化- 1711年 康煕帝 ▲a 盛世滋生人丁 を実施。この年以後の増加人丁には丁銀を課税しない。
解説
康煕帝の在位50年を記念して、前年の壮丁男子の人口(2462万)を定数とし、それ以後の増加人丁は丁銀(人頭税)を課税しないこととした。これを盛世慈生人丁といい、1715年以降に実施した。次の雍正帝時代には、すべての丁銀を地銀に組み込む地丁銀制が全国で実施された。一人あたりいくら、という課税基準がなくなったため、それまで子どもが生まれても役所に届けなかった庶民が、出生を届けるようになったので、急速に人口が増えた。→ 人口の増加をうながす。 - 1717年 明のb 一条鞭法 を廃止し、c 地丁銀制 とする。
康煕帝から雍正帝時代までに全国に普及。
内容:d 人頭税(丁銀=丁税)を土地税(地銀)にくりこみ一括して銀納とした。
意義:e これによって古代以来の人頭税が無くなり、税制が簡素化された。
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3.清の文化
A儒学 の変化。
- 明末清初 明代後期のa 陽明学 の観念的な議論を空論として否定し、実証的な古典研究が重視される。
→ 代表的学者はb 顧炎武 ・▲c 黄宗羲 など。 明の遺臣として、清に仕えず。
→ 清朝による漢人学者の優遇 → d 考証学 が多くの学問分野で盛んになる。 - 乾隆帝時代のe 銭大昕 などが活躍。→ 次第に実学としての性格は薄れる。
- ▲f 公羊学 乾隆帝時代の後半に顕れた、考証学に飽きたらず 経世実用 を主張した学派。
a 『紅楼夢』 の挿絵
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B庶民文化 の発達。- 白話小説 a 『紅楼夢』 (曹雪芹ら作。貴族の家庭の衰退を描く。)
b 『儒林外史』 (呉敬梓作。官吏の腐敗をつき科挙制度を風刺。)
c 『聊斎志異』 (蒲松齢作。怪異小説集。日本の説話に影響。) - 戯曲 『長生殿伝奇』 (玄宗と楊貴妃の悲恋を描く)
『桃花扇伝奇』 (明末の悲恋物語)など。
▲北京では18世紀末にd 京劇 が盛んになる。 - 絵画 南宋画の隆盛。ヨーロッパ風の明暗法・遠近法の採用。
画家では清初に石濤、八大山人が山水画で活躍。
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4.宣教師の活動と文化の交流
Aイエズス会 の布教活動。
- 明末清初 a アダム=シャール (湯若望):明末に徐光啓らと 『崇禎暦書』 を作成、
清代に入り「時憲暦」を制定し、北京の天文台長官に任命される。。 - 康煕帝時代 b フェルビースト (南懐仁) :暦法改訂、大砲鋳造に活躍、天文台副長官。
c ブーヴェ (白進)とレジス(雷孝思):最初の中国全図 d 『皇輿全覧図』 を完成。
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B典礼問題- a イエズス会 の宣教師の布教活動の成功。
b 布教に際して中国の伝統的儀礼(孔子の崇拝、先祖の 祭祀など)を認めた。
→ フランチェスコ派など、他派の宣教師が、イエズス会の布教方法を非難、ローマ教皇に告訴した。 - 1704年 教皇クレメンス11世、イエズス派の伝道方法を異端として禁止。
→ c 康煕帝 がイエズス会以外の典礼を拒否する会派の伝道と入国を禁止。
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Cキリスト教布教禁止- 1724年 a 雍正帝 、キリスト教の布教を禁止する。ただし、宣教師の国外追放はせず。
→ そのため、宣教師は学者・芸術家として宮廷で用いられ続けたが、民間への布教はできなかった。 - 1757年 b 乾隆帝 、外国船の来航をc 広州 の一港に制限。(前出)
- 乾隆帝時代のキリスト教宣教師 布教活動はできず、皇帝に仕えて西欧技術を伝授。
d カスティリオーネ (郎世寧)ら、e 円明園 を設計。中国最初の西洋風建築。(後出)
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D ヨーロッパへの中国文化の紹介- 18世紀 宣教師の活動により、中国の文化や思想がヨーロッパに影響を与えた。
- = 儒教・科挙などの思想と社会制度、造園術、陶磁器・絹織物などの高度な技術が知られるようになる。
- a 啓蒙思想家 (ヴォルテールなど)は西洋と中国の国家体制を比較し優劣を論じる。
- 芸術の上ではb シノワズリ (中国趣味)が流行。(9章3節へ)