第2章 アジア・アメリカの古代文明
◀ 第2節 東南アジアの諸文明 ▶
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ア 東南アジアの風土と人々
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イ インド・中国文明の受容と東南アジア世界の形成
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解説:扶南
扶南(ふなん)は漢字表記なので中国に近いベトナム北部にあったと勘違いされやすいが、実際はベトナム南部からカンボジアにかけての地域にあった。「フナン」はクメール語の古語で山を意味するプナムから来た言葉で、この国王が「山の王」と称したことから、中国で「扶南」の字があてられるようになった。現在のカンボジアの首都プノンペンのプノンと通じているので、カンボジアを含む国家であったことが理解できる。東南アジアで最初に自立した国家であり、港のオケオを中心に東西交易で繁栄した港市国家であった。
オケオ遺跡から出土したローマ帝国のマルクス=アウレリウス=アントニヌス(五賢帝の一人)の肖像のある金貨の写真が教科書にあるので確認しておくこと。
解説:インド化
東南アジアの文明の形成は、まず中国文明がベトナム北部から影響を及ぼしてきたことに始まる。銅鼓に代表されるドンソン文化も中国文明の影響が強かった。東南アジアの諸王朝は中国との関係が強く、扶南や林邑、真臘、室利仏逝などのように中国名でその名が伝えられている。そのような中、次第にインド文明の影響がおよんできた。その第一段階は1世紀ごろ南インドに成立したサータヴァーハナ朝の影響が扶南におよんだことであった。第二段階がグプタ朝の影響が及んだ4~5世紀ごろで、本格的に「インド化」した時代であり、その内容は上記のようなものである。なお、ベトナム北部は中国の影響が強いので長く漢字が用いられ、陳朝の時に漢字を元にチュノムがつくられるが、その他の地域ではインドのブラーフミー文字を元にしたビルマ文字、クメール文字、タイ文字がつくられていったのも「インド化」の一つである。
解説:アンコール=ワット
アンコールは首都、ワットは寺の意味なので、アンコール=ワットは「首都の寺」の意味。その北側に隣接する王宮がアンコール=トム(「大きな都」の意味)。アンコール=ワットは回廊にヒンドゥー教の説話である『マハーバーラータ』『ラーマーヤナ』の物語が浮き彫りで描かれてているなど、インド文明の影響が強い。12世紀前半、約30年をかけて造営されたヒンドゥー教寺院であるが、12世紀末の全盛期のジャヤヴァルマン7世の時に仏教寺院として使われた。カンボジアのクメール文化を代表するものとして世界遺産に登録されているが、カンボジア内戦で被害を受け、現在、修復が進んでいる。
解説:パガン朝
ビルマ人が建てたパガン朝は、征服したモン人から上座部仏教の信仰を受け継いだ。王たちは熱心に信仰し、盛んに寺院を建立した。そこでパガン朝は「建寺王朝」と言われている。その寺院は今でもパガンの町に多数残っており見ることができる。しかし、「仏寺成って国滅ぶ」と言われたとおり、13世紀には国力が衰え、1287年にモンゴル(元)のフビライ=ハンに攻撃されて滅亡した。
解説:タイ
もともとのタイ人は現在のタイにいたのではないことに注意。タイ人はシナ=チベット語系に属し、中国南部の雲南省一帯にいた民族(大理も同系統)であったが、モンゴル人に圧迫されて南下したと考えられる。その過程でモン人を征服し、スコータイ王朝を建てた。13世紀末のラーマカムヘン王の時が全盛期で、クメール文字を元にタイ文字をつくった。スコータイ朝は周辺の民族に支配を及ぼし、タイ語の使用範囲も拡大、現在のタイ人はタイ語を話す人々の総称となっている。
解説:義淨
義浄は7世紀後半の唐の僧。仏典を求めて海路インドに渡り、ヴァルダナ朝の時代のナーランダ僧院で学んだ。帰路にシュリーヴィジャヤに滞在し、その地で書いた『南海寄帰内法伝』にこの国での大乗仏教が盛んであったことを伝えている。
解説:シャイレンドラ朝
ジャワ島のシャイレンドラ朝は8世紀に大躍進し、一時は婚姻関係にあったシュリーヴィジャヤに代わってスマトラ島も支配し、さらにマレー半島、カンボジア、ベトナムにも進出したとされている。しかし、シャイレンドラ朝とシュリーヴィジャヤの関係はまだ不明な点が多い。ジャワ島中部に残るボロブドゥール遺跡はアンコール=ワットと並ぶ東南アジアの有名な世界遺産であるが、こちらは大乗仏教の寺院。なおジャワ島中部に9世紀半ばに登場したマタラム王国はヒンドゥー教国で、この王朝の時に造られたヒンドゥー寺院であるプランバナン寺院も世界遺産に登録されている。
解説:徴側(チュンチャク)と徴弐(チュンニ)
秦の始皇帝の死後、中国南部からベトナム北部にかけて南越が自立した。漢は南越王を冊封(その地方の支配を認める)したが、武帝はその内紛に乗じて征服し、郡を置いて直接支配した。後漢もベトナム直接支配を続けたが、それに対して起こされたベトナム人の反乱が徴姉妹の反乱である。西暦40年、光武帝が派遣した後漢軍をベトナムの豪族徴氏の徴側(チュンチャク)と徴弐(チュンニ)の姉妹が先頭となって戦い、一時は後漢軍を撃退した。結局は後漢の将軍馬援によって鎮圧されたが、姉妹は現在もベトナム人の民族的な英雄として崇拝されている。
解説:チュノム
字喃(チュノム)は陳朝の時、ベトナム語を書き表すために、漢字を元に作られた文字。中国文化の影響の中で、独自の文字を持とうとした試みは、民族意識の高まりを示すものである。しかし、字喃は習得が難しかったことなどのために、一部の官僚が使用するものにとどまり、民衆には普及せず、公用の文字とはならずに衰え、ベトナムは後にキリスト教のフランス人宣教師が持ち込んだラテン文字を使用するようになる。
解説:港市国家
港市国家はテキスト前節のp.61を参照。インド洋に面した国々にはスリランカのシンハラ王国、南インドのチョーラ朝などがみられるが、特に発達したのが東南アジアで、扶南、チャンパー、シュリヴィジャヤ、シャイレンドラ、マラッカ王国などがその典型的な例とされる。通常の国家のような陸上の領土は明確ではないが、港を中心に海上交易路や河川交易路を支配し、内陸の物資を集積して積み出したり、中継貿易を行って国力を高めた国々である。一つの国家類型として最近注目されている。