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第2章 アジア・アメリカの古代文明

 ◀ 第3節 中国の古典文明 ▶ 

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ア.東アジアの風土と人びと ノート(ア)
■POINT 現在の中国を中心とした東アジアを一つの文明圏として捉えよう。これから何度も出てくる、中国の二大河川、黄河と長江の流域を確認する。次いで、中国をとりまく東アジアの周縁地域、モンゴル、朝鮮半島、日本列島、台湾、東南アジア(前章で学んだ大陸部と島嶼部の違いに留意)、雲南・チベットなどのおよその位置関係を理解しよう。

解説:中国文明

 かつては四大文明の一つとして「黄河文明」と言われていたが、最近では長江流域にも同等の農耕文明が存在していたことが明らかになったことから、「中国文明」と総称するようになった。ただし、依然として「黄河文明」という呼称を用い、その優越を説く学説もあり、それに従っている教科書もある。中国の古代文明の研究はまだ途上のようである。

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イ.中国文明の発生 ノート(イ)
■POINT① 現在では「中国文明」として一体として捉えているが、それでも黄河流域は畑作農耕が主で、長江流域は稲作農耕が発達したという違いはおさえておこう。中国史における北と南の違いは、この後も重要な意味をもっている。
■POINT② 中国文明に関する次の重要遺跡の位置を地図で確認しておこう。仰韶、良渚、河姆渡、竜山、二里頭、三星堆、殷墟。
彩文土器

解説:彩文土器

 彩文土器は彩陶とも言う。ユーラシア大陸の新石器文化に共通する簡潔な彩色模様が施されている。中国では仰韶遺跡や半坡遺跡など、黄河流域に見られる。新石器時代の後期になると、黄河下流の竜山文化に見られる黒陶(黒色研磨土器)が多くなる。

解説:稲作農耕

 河姆渡(かぼと)遺跡は1970年代に発掘され、長江下流域で紀元前5000~前3300年頃の稲作農耕が行われていたことが明らかになった。これは仰韶文化の時期と同じ時期である。さらに最近では前7000年紀の稲作の痕跡が発見され、稲作が始まった地域ではないかと考えられ、注目が集まっている。

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ウ.初期王朝の形成 ノート(ウ)
■POINT 現在のところ、中国最古の王朝は、中国では「夏王朝」とされているが、日本の学会では今も「殷王朝」を最古とする見解が主流である。夏王朝のものとされる遺跡からは都城跡と青銅器が発掘されているが、文字資料は見つかっていない。中国における文字の起源は今のところ、殷代からの甲骨文字と考えられている。しかし、最近では発掘の結果、定説が覆されることが続いており、近い将来の新発見で教科書の記述も変わるかも知れない。
■POINT② 殷は国名としては「商」が正しいが「殷」としても誤りとはされない。殷と周の歴史は『史記』等の歴史書に詳しく伝えられるが、ポイントは中国が金属器(青銅器)と文字を持つ文明段階に入ったと言うこと。また周では封建制度の理解は欠かせない。

解説:夏王朝

 司馬遷の『史記』によげば、三皇とは、伏羲(ふくぎ、狩猟を始めた)・神農(しんのう、農耕を始めた)・燧人(すいじん、火食を始めた)の三神をさし、五帝とは、黄帝・顓頊(せんぎょく)(暦法の発明)・帝嚳(こく)・尭(ぎょう)・舜(しゅん)の天子をさすとされる。特に尭舜時代は、治水事業が進み、国が安泰だったという。その舜から国を譲られた(禅譲)のが黄河流域の治水に業績を上げた禹(う)であり、彼が中国最初の王朝である夏を建国したという。
 現在の中国では考古学上の発掘が進み、竜山文化の時期をそれに当てる説も出ている。特に河南省の二里頭から、城壁と青銅器をもつ遺跡が発掘され、それを夏王朝後期の都城とする説が有力になっており、中国では最古の王朝は夏王朝である教えられている。しかし、殷墟のような甲骨文字はまだ発見されておらず、日本ではまだ「夏王朝」の実在は否定的に見られている。

解説:甲骨文字

彩文土器  甲骨文字は亀甲や獣骨に刻まれた文字で、殷代に始まり、中国独自に発達し現在の漢字のもととなった。殷王が戦争や狩猟に際しての占いのために使われたので卜辞とも言われる。殷墟から甲骨文字が多数発見されたが、周の時代には青銅器に刻まれた金文が現れ、各地でちががいがあったが、前3世紀末に秦の始皇帝によって書体が統一され篆書が作られた。オリエントの楔形文字、エジプトの象形文字、ヘブライ人のアルファベットなどとともに、文字の歴史を一つのテーマとして学習しておこう。

解説:三星堆遺跡

三星堆遺跡出土の仮面  三星堆(さんせいたい)遺跡では1986年の発掘で世界を驚かす青銅器文明の存在が明らかになった。それは左図のような特異な仮面などをもつ独特なものであった。この地は長江の上流の四川省にあり、三国時代の蜀の勢力圏であったことから、黄河流域とは異なる文明と政治権力が存在していたのではないか、と言う点が注目された。しかし、研究が進んだ結果、青銅器の製法としては殷と同じく外范分割法を用いており、素材の青銅の鉛同位体比の分析によって殷王朝の青銅器と同一の鉱山の原料が使われていたことが判明した。それによって、三星堆の独自性は否定的に見られるようになり、殷を中心とした青銅器文明の一つの地域形態ではないかと考えられるようになっている。

解説:周の封建制

 周の封建制は政治制度であり、周王が一族や功臣、地方の有力な土豪を諸侯として一定の土地と人民の支配権を与えて統治したシステムをいう。諸侯に与えられた地域を「国」といい、諸侯を封じて(土地と人民を与えて)国を建てることが「封侯建国」であり、その略が「封建」である。
 諸侯は国を支配し、国内の土地を一族や臣下に分与した。諸侯とその家臣は擬制的(見かけ上の)ではあるが血縁関係をもつ宗族によって結びついている氏族社会があった。日本では中世ヨーロッパの heudalism の訳語として封建社会という歴史用語を使うが、中世の封建社会とは領主間の主従関係と、領主と農奴の関係である農奴制から成り立つ社会の制度を示すものであり、意味が異なる。

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エ.春秋・戦国時代 ★ノート4
■POINT① 春秋・戦国時代は、中国の古代史の中で、周の封建社会が解体して、統一国家に向かうために歩んだ、長い分裂の時代ととらえるらえることができる。その変化をもたらした原動力が、青銅器時代から鉄器時代に移行したことで起こった生産力の向上にあったことを理解しよう。
■POINT② 周の王と諸侯の関係がどう変化したか。尊王攘夷、覇者、など、現在もよく使われる起源を知る。

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オ.社会変動と新思想 ノート(オ)
■POINT 特に戦国時代に顕著となる、鉄器の普及と諸子百家の活動が意味を知ることがポイントとなる。

解説:春秋戦国時代

 春秋・戦国時代は中国史の重要な転換期であった。それをもたらしたのが鉄製農具と牛耕の普及である。それに伴う農業生産力の向上によって貨幣経済が発展し、周の封建制とそれを支えていた氏族社会が崩れることとなった。また、生産単位となった家族を掌握し、広範囲な経済圏を支配する古代の専制国家の出現を準備することとなった。

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カ.秦の統一 ノート(カ)
■POINT 秦の始皇帝が中国を最初に統一した過程を知り、なぜそれが可能であったか、また具体的にはどのような統一策を実行したのか、について知ろう。同時にそこにどのような無理があって、始皇帝代で終わったのか考えよう。

解説:万里の長城

 長城建設は始皇帝が最初に始めたことではない。戦国時代の諸国はそれぞれ国境に長城を築いていた。中国を統一した始皇帝は、各国のつくった長城を北方の匈奴に対する防衛上に使えるもののみ残し、一つながりに修築したといえる。なお、その時の長城は、匈奴が騎馬のまま飛び越せない程度の高さに過ぎなかったようで、現在見る長城とは違っていた。現在見ることのできる長城は、後の明代に建築されたものである。

補足:兵馬俑

兵馬俑
 始皇帝の陵墓の存在は知られていたが、その一部にこれだけ大きな附属遺構があることは全く忘れ去られていた。ところが、1974年、始皇帝陵の東、約1.5kmあたりの地点で農民が井戸を掘っていたところ、地下約5mのところから壊れた陶製の人物像の破片が出てきた。この偶然の発見を端緒として、本格的な発掘が行われたところ、巨大な遺構が発見され、大量の兵士と馬を模した像が出土し、世界を驚かせることとなった。これが始皇帝の兵馬俑坑である。

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キ.漢代の政治 ノート(キ)
■POINT① 秦から漢への移行はなぜ起こったのか。いわば自壊した秦に代わって、覇権を争ったのが劉邦と関羽であったが、その戦いに勝って漢を建国した高祖は、どのような統治を行ったのだろうか。そこには秦の始皇帝のやり方とかなり違うものが見られる。漢の高祖、および漢帝国を完成させた武帝の統治の特徴は何だったのだろうか。
■POINT② 秦と漢は「帝国」としての支配は同じであるが、統治機構のありかたで、秦始皇帝の「郡県制」→漢高祖の「郡国制」→漢武帝の実質的「郡県制」、という変化を理解することが最も重要である。

解説:張騫の活動

 張騫は大月氏に派遣されたが、途中で匈奴に捕らえられ10年間もとどまった。ようやく脱走し、大宛(フェルガナ)国を経て大月氏国に至った。大月氏はかつてタリム盆地東部にいたが、モンゴル人に追われて天山山脈北部にのがれ、さらに烏孫に追われ中央アジアのソグディアナ周辺に移っていた。大月氏は匈奴との戦いは望まず、むしろインドに向けての南進を考えいていたので、張騫の要請には応じなかった。
 張騫は帰路にも匈奴に捕らえられたが、再び脱走して長安に帰り、武帝に西域諸国の豊かさを報告した。特に大宛には汗血馬といわれる良馬がたくさんいたことは武帝の関心を引き、武帝は後に大宛遠征を実行する。張騫はその後、烏孫にも使節として派遣され、この時は同盟に成功した。いずれにせよ、張騫の派遣によって西域の広範な地域が漢帝国に服属することとなったことが重要である。

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ク. 漢代の社会と文化 ノート(ク)
■POINT 大筋で見れば、戦国時代の混乱を収めて統一国家を創出した秦始皇帝は、法家の理念をその統治のバックボーンとし、より安定した統一国家の維持を課題とした漢の高祖・武帝は、儒家の理念を取り入れようとした、と言える。もちろん前漢ではまだ仏教は知られていないので、国家社会の秩序を維持するための理念としては孔子が説いた春秋時代を理想の時代とする歴史観・国家観・道徳をもとにした儒教が有効だった。

解説:司馬遷の『史記』

 司馬遷は代々の漢王朝に使える史官の家に生まれ、正史(王朝の正式な歴史)の編纂に当たっていた。武帝が匈奴討伐に派遣した将軍李陵が捕虜となったとき、友人であった司馬遷がただ一人、かれを弁護したことが武帝の怒りに触れ、宮刑に処せられた。その苦しみに耐えながら、司馬遷は『史記』を完成させた。そのスタイルである紀伝体は『漢書』以下の各王朝の正史でも踏襲され、司馬遷は中国における歴史家の父として尊崇されている。

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ケ.秦・漢帝国と世界 ノート(ケ)

解説:冊封体制

 冊封体制とは、中国の皇帝が、周辺諸国の首長に王位や官位を与えて関係を結ぶ(これを冊封という)ことによって成立した国際秩序を言う。後漢の洪武帝が倭人の奴国王に与えた「漢委奴国王」の称号とその証である金印がその例である。漢帝国以来の中国王朝は、中華思想によって世界の中心にあると自覚し、周辺の諸国と冊封関係を結んでいった。周辺諸国の首長も冊封されることによって中国皇帝から支配権を認めてもらえ、その実質的支配権を安定させた。
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中国の古典文明 解説 終わり

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