第2章 アジア・アメリカの古代文明
◀ 第1節 インドの古典文明 ▶
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ア.インドの風土と人びと
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補足 インドの言語
インドは10億以上の人口を有し、25の州は「言語州」といって言語の違いで分けられており、州の境目を超えると言葉も代わることになる。公用語は18(1992年現在)もあり、紙幣には10を超える文字で金額が記されている。その言語系統は、インドの北半分ではヒンディー語やベンガル語などインド=ヨーロッパ語族に属し、南インドにはタミル語などのドラヴィダ語族に属している。その他にも周辺にはシナ=チベット語族やオーストロ=アジア語族の言語が見られる。
このうち最も広く用いられているのがヒンディー語でその話者人口は中国語、英語に次いで世界第3位に位置する。インド憲法ではヒンディー語を「国語」と規定しているが、南インドなどでは反発が強い。イギリスの植民地時代に使われた英語が依然として共用の言語として通用している。なお、インドと分離して独立したパキスタンではムガル帝国時代にペルシア語とヒンディー語が融合してできたウルドゥー語が公用語とされている。
イ.インド文明の形成
ノート(イ)
補足 インダス文明
最近、メソポタミアの紀元前2350年頃のアッカド王国サルゴン王の碑文などの資料から、「メルッハ」というところから金、銀、銅、黒檀などを輸入していたことがあきらかになっている。このメルッハはインダス文明のことを指すのではないかと考えられており、前1800年頃のインダス文明の消滅の時期と一致してその名が消えている。
インダス文明の代表的遺跡であるモエンジョ=ダーロとハラッパーはいずれも現在のパキスタンに含まれることに注意すること。他にロータル・ドーラーヴィーラーの二つの重要遺跡があるが、これらはいずれもインド西部にあたる。
インダス文明を生んだのは、ドラヴィダ人(イラン方面から移住したものと思われる) 説が有力である。特徴としては、上記の他に綿花を世界で最初に栽培したことや、彩文土器にろくろを使用したことなどがあげられる。
インダス文明の滅亡については、かつてはアーリア人の侵入によって滅ぼされたと言われていたが、現在では否定されている。代わって乾燥化やインダス川の大洪水などの自然要因説が有力になっている。
ウ.アーリヤ人の進入とガンジス川流域への移動
ノート(ウ)
説明 カースト制度
カースト制度はインドを理解する上で最も重要なキーワードであるが、その仕組みは複雑で多岐にわたり、なかなか理解は難しい。大まかに言って、身分制度であるヴァルナと、職業的世襲集団であるジャーティが結びついたもの、といっていいだろう。特にバラモン教とそれから発展したヒンドゥー教というインド固有の宗教と深く結びついている。
基本となる4つの身分を一般にカーストというが、カーストは大航海時代にインドに来たポルトガル人が使った言葉であり、インドではヴァルナと言っていた。ヴァルナはさらに多くのジャーティに分かれ、その数は3000にものぼるという。さらに「カースト外」とされる被差別民が存在した。現代のインドでは、憲法によってこれらの身分差別は禁止されているが、現実には社会に深く定着しており、現在でもインドの社会問題となっている。
エ.都市国家の成長と新しい宗教の展開
ノート(エ)
説明 ブッダ
ガウタマ=シッダールタの生年は紀元前563年と前463年の百年の差の二説あるが、現在では後者が有力とされている。現在のネパールのヒマラヤ山麓にあったシャカ族の王子として生まれたので、広くシャカ(釈迦牟尼)とも言われるが本名はガウタマ=シッダールタ。ブッダ(仏陀)というのは「悟りを開いた人」の意味で名前ではなく、尊称である。生老病死に悩む人間の救済のため、29歳で出家し、バラモンの修行を積むが得られるところなく、35歳で悟りを開いた。
オ.統一国家の成立
ノート(オ)
カ.クシャーナ朝と大乗仏教
ノート(カ)
補足:ガンダーラ美術
ガンダーラはインダス川上流、パンジャーブ地方(現在はパキスタン)のクシャーナ朝の都 プルシャプラ(現ペシャワール)の近郊にあり、1世紀から3世紀にかけて多くの石窟寺院が造営され、石仏が残されている。仏教は本来、偶像崇拝を否定するものであっことと、ブッダは恐れ多い存在であるとされたため、仏像は作られていなかった。たとえば初期の彫刻では仏陀を象徴する菩提樹が描かれているだけで仏陀の姿は見えない。ところがこのガンダーラ地方で、仏像彫刻が見られるようになった。
その理由は、一つはヘレニズム、つまりギリシア彫刻の影響がおよんだことと、大乗仏教の思想から広く大衆を救済する菩薩が信仰されるようになり、わかりやすい菩薩像が造られるようになったことがあげられる。実際、ガンダーラの仏像には、顔つきはギリシア人に似ており、その衣服はギリシア彫刻のような写実性の強いものが見られる。ただし、最近の研究では、仏像はインド中部のマトゥラーで発生したという説も出されている。ガンダーラ美術の仏像彫刻はアフガニスタンのバーミヤン仏教遺跡などを介して、中国の北魏の時代の雲崗の石窟寺院につながる。
その理由は、一つはヘレニズム、つまりギリシア彫刻の影響がおよんだことと、大乗仏教の思想から広く大衆を救済する菩薩が信仰されるようになり、わかりやすい菩薩像が造られるようになったことがあげられる。実際、ガンダーラの仏像には、顔つきはギリシア人に似ており、その衣服はギリシア彫刻のような写実性の強いものが見られる。ただし、最近の研究では、仏像はインド中部のマトゥラーで発生したという説も出されている。ガンダーラ美術の仏像彫刻はアフガニスタンのバーミヤン仏教遺跡などを介して、中国の北魏の時代の雲崗の石窟寺院につながる。
補足:仏教経典の言語
ブッダ自身が用いた言語は中部インドの方言マガダ語とされているが、その文献は全く伝わっていない。後にその教えは西北インドの俗語の一つであるパーリ語に移され、後にスリランカでパーリ経典がつくられて東南アジア各地に伝えられた。紀元1世紀ごろ大乗仏教が起こると、大量の大乗仏典がサンスクリット語(梵語)で書かれるようになった。サンスクリット語は標準文章語として集大成され、中央アジアを経て中国に伝えられ漢訳仏典が作られた。こうして大乗仏教(北伝仏教)ではサンスクリット語、上座部仏教(南伝仏教)ではパーリ語によって仏典が伝えられることとなった。
地図:クシャーナ朝とサータヴァーハナ朝
緑色部分がクシャーナ朝、点々部分がサータヴァーハナ朝
■各王朝の都
- クシャーナ朝の都
a プルシャプラ - サータヴァーハナ朝の都
b プラティシュターナ - ヴァルダナ朝の都
f カナウジ
■石窟寺院の造営地
- c アジャンター
- d エローラ
- e マトゥラー
キ.インド古典文化の黄金期
ノート(キ)
補足:その他の特徴
シヴァ神、ヴィシュヌ神と並んで創造神としてブラフマー神も崇拝された。また、牛を神聖視すること、浄・不浄の観念が強いこと、ガンジス川での禊ぎ、火葬などがある。なお民間では多くの神像が描かれているが、神像は一種の象徴であって、そのものを崇拝するものではない。またヒンドゥー教の中には偶像崇拝を厳しく禁止する宗派もあるので、単純な偶像崇拝宗教とはいえない。
補足:グプタ様式の美術
グプタ様式の仏像はマトゥーラとアジャンターに見られる。上の写真はマトゥーラ出土のものであるが、グプタ様式の仏像になるとヘレニズム的要素派はなくなり、温和な表情、丸みを帯びたなだらかな衣服などインドの独自性が強まっている。それは私たちが見慣れた日本の仏像と同じ雰囲気のものである。
アジャンター石窟寺院は、前1世紀から後7世紀という長期にわたって造営されたものだが、最盛期はグプタ朝だった。壁画が有名で、インド最古の仏教壁画を始め、日本の飛鳥時代(7世紀)に聖徳太子が建立したとされる法隆寺の金堂壁画などにその影響を見ることができる。8世紀には、デカン高原にエローラ石窟寺院が造営されている。
アジャンター石窟寺院は、前1世紀から後7世紀という長期にわたって造営されたものだが、最盛期はグプタ朝だった。壁画が有名で、インド最古の仏教壁画を始め、日本の飛鳥時代(7世紀)に聖徳太子が建立したとされる法隆寺の金堂壁画などにその影響を見ることができる。8世紀には、デカン高原にエローラ石窟寺院が造営されている。
解説:仏教衰退の要因と背景
仏教は王朝の保護のもと、クシャトリヤや商人などの上層階級に支持されていたが、民衆の間では熱心なバクティ運動によってヒンドゥー教信仰が浸透していった。ヒンドゥー教の影響を受け、大乗仏教の中に密教が生まれ、神秘的な儀式が行われるようになった。
カースト制度がインド社会に定着し、カーストを否定する仏教はむしろ民衆から離れていったと言える。また、ヴァルダナ朝ごろから西方との交易が衰え、商業活動が不振となり、仏教支持層の商人が仏教から離れていったことも一因である。そのような中で10世紀以降、イスラーム教が及んで激しい異教排斥が始まると、民衆に浸透していたヒンドゥー教はそれに対抗しながら許容される傾向にあったが、民衆に基盤のない仏教はそれに抗することが出来ずに衰退していった。しかし、近代にいたってインド仏教にも一定の復興が見られることも忘れてはならない。
地図:5~7世紀のインド
- A グプタ朝 の領域
- B エフタル の進路と最大領域
- C ヴァルダナ朝 の領域
重要地名
- a パータリプトラ
- b カナウジ
- c マトゥラー
- d サーンチー
- e アジャンター
- f エローラ
- g サールナート (ベナレス)
- h ナーランダー僧院
ク.南インドとインド洋交易
ノート(ク)
説明:エリュトゥラー海案内記
1世紀ごろのギリシア系商人がインド洋海域で活躍していたことを伝える文献が『エリュトゥラー海案内記』である。この書はアレクサンドリアを拠点としていたギリシア系商人が、インド洋での交易案内のためにかいたものであるらしく、アフリカ東岸、アラビア半島から南インドにいたる港の様子が記されている。エリュトゥラー海とは紅海のことだが、当時はもっと広い海域を指していたらしい。なお注目されるのは、中国と思われるティーナイという地名が出てくることで、これは西洋文献に現れた中国の記述としてもっとも古いものである。
補足 スリランカ(セイロン島)
- アーリヤ系のa シンハラ王国 が成立。b 上座部仏教 を受容。インド洋交易で活躍。
- ドラヴィダ系c タミル人 が移住。d ヒンドゥー教 を信仰。
→ シンハラ人との対立、現在まで続く。