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第3章 内陸アジア世界・東アジア世界の形成

 ◀ 3節 東アジア文化圏の形成 解説 ▶ 

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ア.隋の統一と唐の隆盛 ノート(ア)

解説:隋の性格

 楊堅は、鮮卑族の出身であるが、鮮卑は北魏の孝文帝以来、漢文化に同化しているので遊牧生活を送っていたわけではない。しかし、西魏に始まる府兵制など、軍事力の組織化にすぐれ、楊堅も強力な軍事力を有していた。外戚という立場で禅譲(平和的に帝位を譲り受けること)を受けたが、その権力を支えたのは強力な軍隊であった。なお、楊堅は北周を建国した宇文泰や後の唐を建国する李淵らとおなじ関隴集団といわれる陝西省・甘粛省一帯を基盤とした武人集団に属し、かれらが互いに血縁関係を結び、北魏から隋唐に至る支配層を形成していたことが注目されている。

解説:唐の性格

 唐を建国した李淵も隋の楊堅と同じように鮮卑系の関隴集団に属しており、鮮卑系の家系であるが、すでに漢化しており漢民族と自覚されていた。武人集団を率いて強力な軍事力を持ち、東突厥など遊牧民の力を利用しながら隋末の混乱を乗り切り、建国した。しかし、李淵(高祖)の時はまだ全中国に支配は及んでいなかった。

解説:唐の太宗

 李世民は李淵の次男で、父親に挙兵を勧め、隋との戦いでも最も勲功があった。皇太子ではなかったが、626年に兄の皇太子を殺害して皇太子となり、まもなく父を幽閉して即位し、太宗となった。このような非常手段で即位したが、その治世は貞観の治と言われて安定し、唐王朝の繁栄を築いた名君と言われている。

解説:天可汗

 630年、唐の太宗(李世民)は軍隊を派遣してモンゴル高原の東突厥を攻撃した。唐軍は突厥と同じトルコ系の鉄勒と結び、東突厥を服属させた。このとき、鉄勒諸族は、太宗に対して、天可汗(テングリカガンの漢訳)という称号を贈った。この称号は遊牧民の最高君主、「世界皇帝」を意味するもので、これによって唐の太宗はまさに「世界帝国」の統治者として認知されたことになる。

解説:羈縻

 羈縻(きび)とは、馬や牛をつなぎ止めておくこと。唐王朝はその支配領域に多くの異民族を組み入れ、それらを治めるために、六都護府を置き、その下に都督府、刺史をおいて監督した。都護府には中央から長官と付属の軍隊を派遣したが、都督、刺史には現地の異民族の族長を任命した。このような、一定程度、現地人に支配を任せる体制を羈縻政策と言った。なお、それとは別に東アジアの諸国には、漢以来の冊封体制も維持されていた。ただし、奈良時代の日本は遣唐使を派遣して朝貢したが、冊封体制には入らなかった。

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イ.唐代の制度と文化 ノート(イ)

解説:景教

 ネストリウス派キリスト教は431年のエフェソス公会議で異端とされ、ローマ領内での布教を禁止された。そのため東方に伝えられ、ササン朝ペルシアを通じて唐にもたらされ、景教と言われた。745年には長安にネストリウス派キリスト教の寺院である大秦寺がつくられた。またその不況を記念してつくられたのが『大秦景教流行中国碑』である。唐末には廃仏と共に景教も弾圧され、次第に衰えた。

解説:イスラーム教

 唐ではイスラーム教徒であるアラビア人(アラブ)をタージーといい、大食の漢字を当てた。イラン人がアラビア人をそう呼んだことからきているらしい。またイスラーム教徒をムスリムというのでアラビア人商人をムスリム商人と呼ぶ(イスラーム教については次章で説明)。7世紀の唐時代にすでにイスラーム商人が中国に来ていることに注意すること。

図と解説:唐への外国使節

打球図 唐への外国使節  図はいずれも唐の高宗の皇子、章懐太子(李賢)の墓に描かれた壁画の一部。皇族の墓に唐朝の風俗とは異なる地域の文化を示す図が描かれていて興味深い。左図のポロのような騎馬競技は古代ペルシアで盛んに行われ東方に伝えられたと言われている。騎士の服装は乗馬に適した筒袖・ズボン・長靴である。右図は唐朝に朝貢に来た外国使節を描いたもの。左側三人は唐の漢人で、漢民族固有の服装をしており、右側の三人が外国使節。右から、靺鞨(中国東北地方の民族)・新羅(鳥羽冠を着けている。高句麗、渤海説もある)・ビザンツ帝国の使節と推定されている。なお、ビザンツ帝国からは貞観年間・開元年間などの使節の派遣があり、西安の遺跡からビザンツの金貨が出土している。<2003年度センター試験世界史A追試、山川詳説世界史、中国中学校歴史教科書などによる>

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ウ.唐と隣接諸国 ノート(ウ)

解説:ソンツェン=ガンポ

 チベットの諸部族を統一したソンツェン=ガンポは、唐と吐蕃のあいだにあった吐谷渾(とよくこん、鮮卑系の吐谷渾がチベット人を支配した国)から諸制度を学びながら自立し、唐に対し公主(皇帝の娘)との婚姻を要求した。太宗がそれに応じなかったため638年唐の国境を攻撃、641年に唐の太宗はソンツェン=ガンポの実力を認め、文成公主をチベットに降嫁させた。文成公主は中国の仏教をチベットに伝えた。

解説:唐と日本の関係

 唐と日本の盛んな交流には次のような例がある。
・阿倍仲麻呂(唐名朝衡) 717年 遣唐使として入唐 科挙に合格して玄宗に仕え、安南節度使となる。「天の原ふりさけみれば春日なる三笠の山にい出し月かも」と詠んだ歌は有名。
・鑑真 754年に来日。日本に戒律を伝え、東大寺戒壇院、唐招提寺を開く。
・天台宗を伝えた最澄、真言宗を伝えた空海もいずれも唐に渡り学んでいる。
・なお最近になって唐朝に仕えた日本人井真成(日本側に記録がない)の墓碑や、最澄の弟子で唐で天台宗を学んで『入唐求法巡礼行記』を著した円仁を顕彰した石碑などが中国で相次いで発見されている。

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エ.唐の動揺 ノート(エ)

解説:則天武后

 則天武后は唐の高宗の皇后として実権を握り、ついには国号を唐から周(武周)に代えて皇帝になった女性。唐王室の李一族など北朝以来の貴族勢力(関隴集団。長安付近に土着した鮮卑系貴族)を一掃した。自ら聖神皇帝と称し、国号を周に改めたたり、進士科の中心試験科目に詩賦を置き、官吏登用に文学的才能を重視して科挙制を強化、官僚制を整備した。また律令制度の官職名を『周礼』を手本としたものに改めた。さらに自ら漢字を創作した(例えば国を圀とするなどで則天文字と言われる)。また仏教を崇敬し、官寺を大雲寺として保護したり、畜類の殺生や魚の捕獲を禁止したりしている。これらの改革は武周革命とも言われる。

解説:両税法

 両税法の大事な点は、それまでの租庸調制が土地の均等な配分を前提とした均等な税制であり、戸籍に基づいて課税されたのに対し、それぞれの戸の資産に応じて、現住地で課税されるようになったことである。しかし、人頭税(一人あたりいくら、と課税される)が基本であり、地税(土地面積につきいくら、と課税する)との二本立てであったことは後の税制と異なる。両税法は約800年間続いた後、明代に人頭税と地税を一体化して銀で納める「一条鞭法」に変わり、さらに清代に人頭税を無くして地税に繰り込んで一本化にした「地丁銀」となる。

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オ.五代の分裂時代 ノート(オ)

解説:五代の変遷

五代の変遷 各王朝の始祖(系統)・都・特記事項
後梁:907~923 朱全忠(漢人)汴州(開封)
後唐:923~936 李存勗(トルコ系)洛陽
後晋:936~946 石敬瑭(トルコ系)開封 契丹の援助を受け、代償として燕雲十六州を割譲
後漢:947~950 劉知遠(トルコ系)開封
後周:951~960 郭威(漢人)開封 世宗の時、統一を進め、宋の基盤が出来る

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東アジア文化圏の形成 解説 終わり
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