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第3章 内陸アジア世界・東アジア世界の形成

 ◀ 2節 北方民族の活動と中国の分裂 ▶ 

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ア.北方民族の動向 ノート(ア)

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イ.分裂の時代 ノート(イ)

解説:三国志

 小説や映画、漫画やゲームでおなじみの『三国志』はこの時代の英雄・豪傑を主人公とした物語であるが、本来の『三国志』は晋の陳寿が著した正史の一つで、通俗的な読み物ではない。私たちが普通に『三国志』と言っているのは、三国時代の史実を元にして面白い話が元代に生まれ、明代に羅貫中によって現在のような形にまとめられた『三国志通俗演義』のこと。残念ながら世界史の授業では、関羽も張飛も諸葛孔明も出てこない。

解説:六鎮の乱

 華北を統一した北魏は、鮮卑族と土着の漢人たち融合させて、万里の長城の北に六つの基地を設け、北方の守りを固めた。それを六鎮(りくちん)という。孝文帝が漢化政策を進め、都を洛陽に移すと、都に従った鮮卑族は漢化が進み、次第に軟弱な貴族文化に染まっていった。それに対して胡人の気風を残す北方六鎮の武人たちは不満を持つようになった。孝文帝の死後、帝位をめぐって都の貴族たちが争ううちに、523年、六鎮の武人がついに反乱を起こした。これが「六鎮の乱(りくちんのらん)」と言われる戦乱で550年まで続き、北魏を分裂させる要因となった。

解説:北魏の東西分裂

北魏の分裂 六鎮の乱の中で台頭したのが、漢人の武将高歓と鮮卑の武将宇文泰だった。二人はそれぞれ北魏王室の皇子を建てて皇帝としたため、538年に北魏は東西に分裂した。高歓が孝静帝を立て鄴(ぎょう)を都としたのが東魏、宇文泰が文帝を擁して長安を都としたのが西魏である。いずれも皇帝は名ばかりで実権は武将にあったので、東魏では高歓の子の高洋が即位して北斉となり、西魏では宇文泰の子の宇文覚が即位して北周となった。北斉と北周は華北の主導権をめぐって激しく争ったが、西魏の府兵制を継承した北周が、次第に軍事的な優位を占めるようになった。

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ウ.社会経済の変化 ノート(ウ)

解説:門閥貴族

 3世紀の中ごろ、九品中正制が行われていた晋で、九品の上の品等にされた人々には寒門=貧しい家の出身者は無く、下の品等とされた人々には勢族=有力者がいない、という意味。つまり、上品は有力者=豪族に占められている、ということである。魏から始まる九品中正が本来の人材登用の目的からはずれ、西晋のころには豪族が中央の官僚になることが多くなり、門閥貴族となっていったことを示している。

解説:均田制

 均田制は隋と唐でも継承され、さらに古代日本の班田収授法のもとになった土地制度であるが、北魏の制度には大きな特色があった。それは、女性に男性の半分、奴婢に良民と同額、さらに耕牛にまで土地が支給されたことである。均田制はもともと土地公有の原則を導入して、豪族の大土地所有を制限し、農民からの租税収入を確保することが狙いであったが、奴隷や耕牛にも土地が支給されたことは、奴隷所有者である豪族にとって有利であり、豪族優遇であったといえる。

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エ.魏晋南北朝の文化 ノート(エ)

解説:仏教弾圧

 北魏の太武帝が仏教を弾圧したのは、自らが道教を信仰したためであるが、背景には漢民族を統治するには外来宗教の仏教を保護するより、漢民族から生まれた道教を保護した方が都合がいいという判断があった。仏教はまず北方民族の中で広がっており、漢民族からは外来宗教とみられていた。その後も仏教と道教は権力の保護をめぐって対立する。なお、「三武一宗の法難」とは、446年の太武帝、574・575年の北周の武帝、845年の唐の武宗、955年の後周(五代十国の一つ)の世宗の時の仏教弾圧を言う。

解説:石窟寺院

 中国で石窟寺院と石仏が流行したのは、廃仏の際に木造建築のお寺や木彫の仏像だと焼かれてしまうことを避けたからである。北魏の太武帝の時の廃仏の後、仏教は復興するが、文成帝の時には都の平城(大同)の郊外の雲崗、孝文帝の時には遷都した先の洛陽の郊外の竜門にそれぞれ石窟寺院がつくられ、石仏がまつられた。なお敦煌は西域の入り口にあり、砂漠地帯なので最初から石窟寺院としてつくられたが、仏像は塑像(粘土作り)である。また、雲崗の仏像はインドの影響が強く、竜門になると中国風の独自性が強くなることにも注目しよう。

解説:竹林の七賢

 魏から西晋にかけての3世紀ごろ、老荘思想の影響を受け、儒教倫理の束縛から離れた自由な議論を展開した阮籍らを竹林の七賢という。背景には三国の中で有力であった魏で、司馬懿が実権を握り、司馬昭、司馬炎と三代がかりで権力を簒奪して晋(西晋)を建国したという混乱があった。貴族の中にそのような政治の場面から身を避けて隠遁し、竹林に集まって酒を飲んだり、楽器を奏でたりしながら、きままに暮らす人々が現れた。彼らは権力者の司馬氏からの招聘も断り、自由に議論するを好んで「竹林の七賢」と称された。阮籍(げんせき)・嵆康(けいこう)・山濤(さんとう)・向秀(しょうしゅう)・劉怜・阮咸(げんかん)・王戎の七人を言うが、七人が同時に集まっていたということではない。彼らの議論は「清談」と言われ、以後の六朝の文化人の理想とされた。なおその中の嵆康は、魏の実力者司馬昭(司馬炎の父)によって死刑になっている。阮籍は名利を求めて近づく人物には白眼を持って迎え、清廉な人物は青眼を持って迎えたという「白眼視」の話で有名である。

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オ.朝鮮と日本の国家形成 ノート(オ)

解説:冊封体制

 冊封体制とは、中国の皇帝が周辺諸国の首長に対し、王・侯などの爵位を授け、その国を外藩国として統属させる体制をいう。冊封という形式は、本来は国内の王・侯に対する爵位授与を意味するものであるが、その形式が周辺諸国に対する中国王朝の統属形式に用いられた。この冊封体制を基軸として、周辺諸国と中国との政治的・文化的関係が形成され、そこに東アジア世界が出現したという学説がある。

解説:倭の奴国と金印

 『後漢書』東夷伝倭人条に、57年、倭の奴国王が光武帝に使いを送って朝貢し、印綬を授けられたという記事がある。この奴国は北九州にあった国の一つであろうとされ、そのときの印綬が、志賀島で発見された「金印」であろうと考えられている。当時、弥生時代の中期にあたり、小国家の統合が進んでおり、その中の有力な国の一つが奴国であったものと思われる。

解説:邪馬台国と卑弥呼

 卑弥呼は『魏志倭人伝』に現れる邪馬台国の女王で、239年、魏に朝貢して皇帝から「親魏倭王」の称号を与えられた。倭人の国々から、「共立」されて女王になったとされ、「よく鬼道に仕え」とあるので、いわゆるシャーマン的な、宗教的な権威を以て治めていたものと思われる。死んだときは「大きな塚」が築かれたと言うが、その墓はどこかはまだわからない。

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