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シャンポリオン

フランス人で、1822年頃、古代エジプトのヒエログリフ解読に、ロゼッタ=ストーンなどをもとに成功した。

シャンポリオン
解読に成功した翌年の1823年に描かれた。自身が作成した音声記号表を手にしている。ロビンソン『図説文字の起源と歴史』p.26
 シャンポリオン Jean François Champollion 1790~1832 フランス人。11歳でエジプトの古代文字に興味を持ち、グルノーブルで研究を始める。共和派であったので、ナポレオン時代・王政復古で苦労が続いたが、エジプト古代文字のヒエログリフ(神聖文字)研究を続けた。1822年までにロゼッタ=ストーンの三種類の文字の検討から、クレオパトラなどの固有名詞を読みとり、その解読に成功、翌1823年にその成果を発表し、古代エジプト文明の探求に大きな貢献をした。

ヒエログリフが表音文字であることを解明

 それまでの解読の試みの多くが、ヒエログリフは表意文字と思い込み、文字の形に意味を解釈しようとしたために失敗していた。初めて表音文字ではないかと考えたのはイギリス人のトーマス=ヤングであったが、個々の文字の音価の特定は誤っていた。シャンポリオンの成功のカギは、ヒエログリフの字形には意味は無く、音を表していると気づいた点であった。厳密にはほとんどが表音文字として書かれ、一部に象徴的な表意文字や、文の区切りの役目をする文字として用いられていた。シャンポリオンはロゼッタ=ストーンのヒエログリフとデモティック(民用文字)と古代ギリシア文字の三種類の文字を比較検討し、さらに新たにナイル川上流のフィレー島で発見された石碑(オベリスク)を材料として、1822年に解読に成功した。
 ヒエログリフが表音文字であることに気がついていた学者もいたが、それが何語の、なんという意味を理解できる者はいなかった。しかしシャンポリオンは、古代エジプト語をわずかに伝えているコプト語(ナイル上流に残る古代キリスト教であるコプト教会で使われている)や周辺の言語に通じていたので、ヒエログリフで書かれた文章の意味を理解することができたのだった。<A・ロビンソン/片山陽子訳『文字の起源と歴史』2005 創元社 p.17-35 などによる>

Episode 11歳のシャンポリオン「私が読みます!」

 フランス革命のさなか、小さな田舎町の本屋の子として生まれた。黄色い角膜、茶色の肌、目鼻立ちが東洋風な赤ん坊だったそうだが、大人になってもエジプト人と呼ばれた。11歳でグルノーブルに出て勉強を始めるとラテン語、ギリシア語、ヘブライ語などを修得、語学に異常な才能を示した。そのとき、ナポレオン軍のエジプト遠征に加わった科学者、数学者として有名なフーリエが県知事としてグルノーブルにいた。フーリエは少年シャンポリオンに興味をもち、自宅に呼んでヒエログリフの碑文をみせ、誰も読んだことがないと告げると、熱心に見入っていた少年は「私が読みます!2,3年たって、僕が大人になったときに!」と言い放ったという。<ツェーラム/村田数之亮訳『神・墓・学者』旧版 1965 中央公論社 p.112 現在は中公文庫>
 ツェーラムの本は古いものだが、シャンポリオンの評伝としては面白いので、同書に依ってその生涯を見てみよう。

シャンポリオンとその時代

 シャンポリオンは17歳でパリに出て研究に没頭した。わずか1年で、コプト語(今も上ナイル地方で使われている、古代エジプト語の後継語)を自由にあやつり、コプト語で独り言をいい、コプト語をデモティック文字で論文を書いた。しかし生活は貧窮のどん底にあり、わずかに兄の援助で生き長らえていた。1808年、ナポレオンが徴兵制を敷き、全男子に一般徴兵が行われるようになると、何事にも強制を嫌う性格の彼は驚愕、このときも兄が陳情書で兵役をなんとか猶予してもらい、研究を続けることができた。彼の心をとらえていたのはロゼッタ=ストーンの研究だった。
 1809年、彼はグルノーブルに戻り、19歳で歴史学教授に抜擢された。「彼は、歴史研究の最高の目的は真理への衝動であると宣言し、そこに絶対的真理を認め、ボナパルト主義的真理とかブルボン主義的真理などというものはまるで認めようとしなかった。」しかしその信念は、ナポレオン没落、王政復古、ナポレオンの復活(百日天下)と続く動乱で、たびたび裏切られた。エルバ島を脱出してパリに向かうナポレオンは、その途中にグルノーブルに入城した。ナポレオン信奉者であった兄に書類にわざとシャンポレオンと間違い、気に入られてその秘書になった。居合わせた弟もナポレオンと面談した。その時シャンポリオンが古代エジプトを研究していると聞き、その著書をパリで印刷させようと約束した。しかし、ナポレオンの百日天下はあっけなく終わる。
 王党派がグルノーブルに押し寄せると、シャンポリオンは三色旗を掲げて城壁に駆け上り、反抗の気勢を示した。王党派軍が砲撃を始めると、シャンポリオンは自分の学問や仕事の成果がダメになると気づくと、城壁から駆け下り、図書館の一室に水や砂を運び込んで一人で、砲声の響く中、パピルスを守った。反逆者として教授の職を奪われ、グルノーブルを去った彼は、本格的なヒエログリフの解読に専念することになる。
 1822年にヒエログリフ解読成功を発表して一躍有名となり、26年にはパリ王立博物館の館長に就任、28年には初めてエジプトを訪れ、2年間現地で研究を続けた。40歳になった1830年にはフランス学士院会員に選ばれ、31年にコレージュ=ド=フランスの教授に就任したが、翌年死去した。

ヒエログリフの解読

 ヒエログリフ解読の試みには長い歴史があったが、誰一人成功していなかった。ヘロドトスもストラボンにも読めなかった。4世紀にホラポロンという人は、解読に成功したとして書物を残しているが、それはヒエログリフを絵文字としてとらえ、その図を解釈して勝手な文章に組み直したにすぎなかった。その後の解読の試みも同じような誤りを繰り返していたが、シャンポリオンはそれまでとは全く違った解釈をした。それは、ヒエログリフは表意文字(絵文字)ではなく、一定の音を表す表音文字であることに気づいたことだった。
 ロゼッタ=ストーンはロンドンの大英博物館に収納されていたので、シャンポリオンはその複製をもとに研究せざるを得なかった。まずヒエログリフの中に枠(カルトゥーシュという)で囲まれた文字群があることに気づき、それを人名ではないかと推定、有名なプトレマイオスとクレオパトラの名を読み取ることに成功した。さらにロゼッタ=ストーンのヒエログリフと同様な部分がナイル川上流のフィレー島で発見されたオベリスク(記念碑)にも見られることから、その比較研究によって解読に成功した。成功のカギは、ヒエログリフは表意文字であると思い込んでいたそれまでの学者と異なり、表音文字であることを見抜いたことにあった。また、彼が早くからコプト語を研究していたため、ヒエログリフで書かれた古代エジプト語を理解することができた。 → ヒエログリフの解読