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カンビュセス2世

前6世紀後半、アケメネス朝ペルシア第2代の皇帝。エジプトを征服し、ペルシア帝国によるオリエント世界の統一に成功した。しかし内乱が起きて倒され、王位はダレイオス1世に移った。

 アケメネス朝ペルシアキュロス2世に続く皇帝。カンビュセス2世(在位前530~前521年、古代ペルシア語名カンブージャ)は、前525年エジプト(末期王朝の段階)を征服し、オリエント全土を支配する皇帝となった。これによって、アケメネス朝ペルシア帝国は、オリエント世界を統一支配する、世界最初の世界帝国となった。
 カンビュセス2世は前525年にエジプトを征服し、第26王朝のファラオ・プサムメティコスを追放し、正式に「上下エジプトの王、ラー、ホルス、オシリスの末裔」として即位したことにより、新たなファラオとして第27王朝を樹立した。ヘロドトスが伝えるところによれば、カンビュセスはエジプトの伝統を無視して聖牛を粗末に扱ったことからエジプト人から「狂った王」として反発を受けたと述べているが、考古学的資料によれば、それまでのファラオと変わらぬ奉納文を捧げており、エジプトの文明にも寛容であったと思われる。しかし、カンビュセス2世の征服欲はエジプトにとどまらず、ヌビア(エチオピア)・スーダン・カルタゴなどにも遠征軍を送った。その遠征軍派遣のすべてに失敗したことが、カンビュセス2世の政治的求心力が弱まったと考えられる。

カンビュセス2世の死を巡る疑惑

 カンビュセス2世は3年に及ぶエジプト在陣からバビロン(あるいはペルセス州)へ帰還する途中、シリアにおいて前522年6月までに急死した。その混乱の中からペルシア帝国は内戦状態となり、その中から勝ち抜いていったのがカンビュセス2世の近衛兵だったダレイオス1世であった。ダレイオス1世が後に造営したベヒストゥーン碑文には、カンビュセス2世は「自分自身の死を死んだ」と記されており、自殺したことを思われるが、実際には王位を狙う弟バルディアやカンビュセス2世に反発していたペルシア貴族、あるいはダレイオス1世のいずれかによって暗殺された可能性も大きい。<青木健『ペルシア帝国』2020 講談社現代新書 p.41-444>
 ヘロドトスの『歴史』が伝えるところでは、カンビュセス王は生まれたときから狂気に近い粗暴なところがあったという。その狂気は肉親にも及び、弟を暗殺したり、酒を控えるよう諫言した近臣にたいし、自分が酔っていない証明としてその息子の心臓を矢で射貫いてみせたり、さしたる罪もない貴族を生き埋めにするなどの悪行があった。軍事指揮では有能であったが、無謀な作戦からリビアやヌビアへの侵攻には失敗し、最後は暗殺されたともいわれている。<阿部拓児『アケメネス朝ペルシア』2021 中公新書p.59-73>

Episode カンビュセスの籤

 カンビュセスはエジプト遠征には成功し、勢いをかってリビアの砂漠やナイル上流のヌビア(エチオピア)にも遠征軍を送った。しかしそれは食糧の補給などを考慮しない無謀な作戦で行われた。リビア遠征軍は砂漠を行軍するうちに砂嵐に巻き込まれ、生き埋めになってしまった。カンビュセス自身が率いたヌビア遠征軍は、途中で食糧がなくなり、兵士は互いの人肉を食うという悲惨な行軍となった。こうしてカンビュセスのエジプトでの軍事行動はいずれも失敗した。このときの出来事を題材に、藤子・F・不二雄が漫画「カンビュセスの籤」という短編を書いている。