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キュロス2世

前6世紀中ごろ、アケメネス朝ペルシアを建国し、前538年には新バビロニアを亡ぼしてメソポタミアの統一を達成した。このとき「バビロン捕囚」のユダヤ人を解放した。ペルシア帝国の実質的な建国者、周辺諸民族を征服したことから大王とも言われる。

 メディアに服属していたペルシアのアケメネス家(古代ペルシア語ではハカーマニシュ家)のキュロス2世(ペルシア語表記ではクールシュ、またはクル)は、前559年に王位についた。この時をアケメネス朝ペルシアの建国の年としている。アケメネスはイラン高原南西部のペールス地方に居住していたので、ペルシア人といわれるが、メディア人と同じくインドヨーロッパ語族に属するイラン系民族である。この段階ではメディアに服属する一地方の王に過ぎなかったキュロス2世であるが、後にメソポタミアを統一するので、キュロス大王ともいわれるようになり、「ペルシア」がイランを意味するようになった。
 キュロス2世自身の残した碑文にはアケメネス家の名は見えず、チシュピシュ家(ティスペス家とも)と名乗っている。またペルシア王ではなくアンシャンの王とも称している。彼がアケメネス家の系譜に取り込まれ、ペルシア帝国の実質的初代皇帝とされるようになるのは、後のダレイオス2世以降であるので、もともと別系統の王であったとの説明もある。<くわしくは青木健『ペルシア帝国』2020 講談社現代新書 p.31-40 を参照>

建国とメソポタミア統一

 アケメネス家のキュロス2世は、メディア王アステュアゲスの婿であったが、前550年にメディアに対する反乱を起こて滅ぼした。これが実質的なアケメネス朝ペルシアの建国である。キュロス2世はさらに勢力を伸ばして、イラン高原一帯を統一し、さらに短期間に小アジアに進出し、前546年リディアも滅ぼした。前538年にはバビロンに入り、新バビロニアを滅ぼした。これによって、メソポタミはアッシリア帝国に続いて再び統一された。この段階ではエジプトはまだその支配地に入っていなかったが、オリエント世界を統一的に支配する世界帝国が再現される情勢となった。
 キュロス2世がバビロンを征服したとき、「バビロンの捕囚」となっていたユダヤ人を解放した。ユダヤ教の聖典である旧約聖書にはキュロス大王は「解放者」として讃えられている。ただし、捕囚と言っても自由を拘束されているわけではなかった。

資料 キュロスの円筒形碑文

Cyrus-Cylinder

Cyrus Cylinder Wikimedia Commons

 キュロス2世がバビロンを占領したことをみずから誇って記録した「キュロスの円筒形碑文」が見つかっている。これはバビロンのマルドゥク神殿の基礎に埋められていたもので、現在は大英博物館に所蔵されており、幅約22cm、高さ約10cmの樽を横にした形の円筒形にアッカド語の文が楔形文字で彫られている。そこでキュロスは「全土の王、偉大な王、強き王、バビロンの王、シュメールとアッカドの王、四方世界の王…………」と名乗っている。碑文の一部を見ると次のようなことが記されている。、
(引用)私が友としてバビロンに入城したとき、喜びと歓喜のもとに支配者の宮殿で統治の座を確立した。偉大な主マルドゥクはバビロンの住民に(私の広い心を愛するようにすすめ)、私は日々彼を崇拝するよう努力した。私のおびただしい軍勢は平和裡にバビロンの中を歩きまわり、私は(シュメール)とアッカドの(国)を脅かすことを誰にも許さなかった。私はバビロンと彼の神聖なるすべての都市の平和のために励んだ。神々の意思に反して(……)のバビロンの住民に関して、私は彼らの地位に反したくびき(賦役)を(廃止した。)私は彼らを休息させ、彼らの嘆きを終わらせた。…………<歴史学研究会編『世界史史料1 古代のオリエントと地中海世界』2012 岩波書店 p.321 ( )は編者による解読部分>
 キュロスの円筒形碑文については<青木健『ペルシア帝国』2020 講談社現代新書 p.36-38>および<阿部拓児『アケメネス朝ペルシア』2021 中公新書p.49-51 を参照>

Episode イラン建国2500年祭

 パフレヴィー朝は、1971年にイラン建国2500年祭典を盛大に挙行した。そのとき、キュロス二世の円筒形碑文を大英博物館から借り受け「世界最初の人権宣言」と銘打って大々的に展示した。2500年前の紀元前530年は実際には建国の年ではなくキュロスが没した年だ。キュロスがユダヤ人をバビロン捕囚から解放したという史実を利用して、イランの国威を発揚しようとしたのだろうが、その8年後の1979年にはイラン革命が起こり、パフレヴィー朝は倒れてしまった。<阿部拓児『前掲書』 はじめに>
 キュロスの円筒形碑文を「世界最初の人権宣言」というのはちょっと無理な感じです。そういえば日本は昭和15年(1940年)に紀元2600年を祝ったが、5年後には敗戦となってしまった。

参考 マキアヴェリが評価するキュロス王

 キュロス王(2世)について、16世紀イタリアのマキアヴェッリは有名な『君主論』の中で、モーゼやロムルス(ローマの建国者)と並べ、「幸運とは無関係に、自分自身の力量によって君主になった人間」として、君主の一つのタイプとして論じている。
(引用)彼らの行動や生涯を調べてみると、いずれも運命から授かったものは、ただチャンスのほか何ひとつなかったことに気づく。しかもチャンスといっても、彼らにある材料を提供しただけであって、これを思いどおりの形態にりっぱに生かしたのは彼ら自身であった。・・・(キュロス王の場合は)ペルシア人がメディア王の統治に不満を持ったこと、メディア人がうちつづく泰平で軟弱になり、女々しくなっていることが必要だった。<マキアヴェッリ『君主論』池田廉訳 中公クラシックス p.42>

Episode キュロス王のドラマ

 <この項、記述に誤りがありましたので、訂正しました。2017.4.24>
 ヘロドトス『歴史』巻一に、キュロスがメディア王国を倒すまでの次のようなドラマが伝えられている。ペルシアの地を支配していたメディア王国の国王アステュアゲスにはマンダネという娘がいた。あるときメディア王は娘のマンダネが放尿して町中に溢れ、さらにアジア全土に氾濫するという夢を見た。マゴス(占い師)の夢占いで将来に恐怖を感じた国王は、マンダネをメディア人ではなくペルシア人のアケメネス家のカンビュセスという男の嫁とした。マンダネが妊娠したとき、国王はまた夢を見た。マンダネの陰部から一本の葡萄の樹が生え、それがアジア全土を覆うという夢である。マゴスたちの夢判断は、マンダネが生む子は国王に代わって王になるはずだというものだった。国王は驚いてマンダネをペルシアから呼び戻し、いよいよその子キュロスが産まれるとハルパゴスという一族の者に殺すことを命じた。赤児を渡されたハルパゴスは自分で殺すことができず、牛飼いの男に山中で殺してきてくれとたのむ。
 赤児を抱いて家に帰った牛飼いは妻に相談した。ちょうど牛飼いの妻は子供を死産した後だった。妻は死んだ我が子の代わりにキュロスを育てようと夫を説得し、牛飼いは死んだ我が子にキュロスの着ていた着物を着せ、ハルパゴスに見せた。こうして牛飼いの子はキュロスとして葬られ、本当のキュロスは別な名で牛飼いに育てられることになった。
 牛飼いに育てられた少年キュロスが10歳になった時、周りの子どもたちが彼を王さまに選んで遊んでいた。王様役のキュロスが、命令に背いた子供を撲ったところ、悔しいと思ったその子はメディア王の重臣の子だったので父を通じて国王に訴えた。訴えを受けた国王がキュロスを訊問すると、子供に似合わぬ風格があり、しかも自分に似ていることに気がついた。そこで子供の父親という牛飼いを捕らえて拷問にかけて白状させ、我が子が生きていたことを知った。国王は命令に従わなかったハルパゴスを呼び、我が子が生きていた祝いの宴会にハルパゴスの13歳になる子を参加させるように命じた。罰せられなかったことを喜んだハルパゴスが息子を宮中にやると、国王はその子を殺し、手足をバラバラにして調理し、何も知らない父にまず頭以外の肉を食べさせた。満腹したところで頭の覆いを取り、国王はどんな獣肉か判ったかと聞いた。父ハルパゴスは自若として「判りました。王のなされることにはどのようなことでも、私は満足でございます」と答えると、残った肉を持って屋敷に帰った。
 国王はキュロスをどうするか、マゴスに聞いたところ、子供の遊びと言えキュロスは一度国王になっているので、これ以上禍を及ぼすことはない、という意見であった。国王は安心してキュロスをペルシアに返すことにした。ペルシアのアケメネス家にもどったキュロスは成人すると、武勇に優れ人望有る人物となった。あるときキュロスの元に兎の体に隠された密書が届いた。それは子をメディア王に殺されたハルパゴスからのもので、メディア王の苛政に苦しむ人々を救うため、謀反を起こすことをうながすものであった。「ペルシア人はすでに以前からメディア人に支配されることを快く思っていなかったので、ここに指導者を得て、欣然として自由を獲得する戦いに臨んだのである。」
 キュロスの率いるペルシア軍がメディア軍を攻撃すると、キュロスに内通したハルパゴスが率いる部隊がペルシア軍に寝返ったため、メディア軍は総崩れとなった。国王アステュアゲスはキュロスを放せと彼に説いたマゴスたちを串刺しの刑に処し、町に残った者たちの老若を問わず武装させペルシア軍と戦ったが敗れ、国王も捕虜となり、メディアはペルシアに支配されることとなった。<ヘロドトス『歴史』巻一 松平千秋訳 岩波文庫(上)p.86-104>
 ただしこの話は、ギリシア人のヘロドトスが記録したもので古代ペルシアの碑文や粘土板楔形文字の史料などで裏付けることはできない。あくまでギリシア人の伝える伝説とみるべきである。

ユダヤ人を「バビロン捕囚」から解放

 キュロス2世はペールス北部のパサルガダエに壮麗な新都を築き、碑文を遺しているが、そこには宗教的信念を表明する文は見当たらない。しかし、宮殿遺蹟には二基の石の台座があり、これはゾロアスター教の火を祀る祭壇と思われる。従ってキュロスは、メディア王国時代にすでにイラン東北の中央アジアからイラン高原に及んでいたゾロアスター教を信じていたと考えられるが、新たな征服地にその宗教を強制することはなかった。その寛容の恩恵を受けたのがユダヤ人であり、彼らはバビロン捕囚から解放されてイェルサレムに戻り、神殿を再建することを許された。
 このことは「人類の宗教史にとっては特殊な例」であったが、ユダヤ人はその後もキュロスに好意を持ち続け、キュロス自身を「救世主(メシア)」と讃えている(『第二イザヤ書』)。その中の「わたし(ヤハウェ)はよろずの物を造り・・・わたしは地を造って、その上に人を創造した。天よ、上より水を注げ、雲は義を降らせよ。・・・」などの詩句はゾロアスターの聖典『アヴェスター』と驚くほどよく似ている。キュロス王の寛容が、ゾロアスター教の影響をユダヤ教に及ぼしたと考えられる。<メアリ=ボイス/山本由美子訳『ゾロアスター教』2010 講談社学術文庫 p.110-116>
キュロス2世墓

キュロス2世の墓 Wikimedia Commons

キュロスの死とその墓

 キュロスは、帝国の北東の国境を脅かしていた同じイラン人で半遊牧民のマッサゲダイ族との戦いで死んだ。彼の死体は香詰めされてパサルガダエに戻され、そこの平野に今も残っている墓に安置された。ゾロアスター教では死体は汚れた物とされるので、人の手には触れられず、風葬にされるのが儀礼であったが、後のアケメネス朝やササン朝の王も香詰めにされているので、これが先例になったと思われる。風葬ではなかったがキュロス王の墓ははるか高い六段の石段の上に、厚い壁、窓もない部屋に置かれて人が触れることができないようにし、その戸口には不死の象徴である太陽の彫刻が施されている。後継者カンビュセス王はこの墓前で毎日羊と馬の供儀を続け、その後の王によっても200年にわたって続いたが、アレクサンドロス大王がペルシアを征服したときこの墓は暴かれ「金の寝台」などが持ち去られたという。<M=ボイス『同上』>
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書籍案内

青木健
『ペルシア帝国』
2020 講談社現代新書

阿部拓児
『アケメネス朝ペルシア帝国』
2021 中公新書

マキャヴェリ
池田廉訳
『君主論』
中公クラシックス

ヘロドトス
松平千秋訳
『歴史』上
岩波文庫

M=ボイス/山本由美子訳
『ゾロアスター教』
2010 講談社学術文庫