印刷 | 通常画面に戻る |

キュロス2世

前6世紀中ごろ、アケメネス朝ペルシアを建国し、メソポタミアの統一を達成。前538年には「バビロン捕囚」のユダヤ人を解放した。

 前559年、アケメネス朝ペルシアを建国した王。メソポタミアを統一し、キュロス大王ともいわれる。ペルシア人はインドヨーロッパ語族に属するイラン系民族で、イラン高原南西部のペールス地方に居住していたが、同じイラン系のメディアに支配されていた。

建国とメソポタミア統一

前549年にメディア王の婿であったアケメネス家のキュロスが反乱を起こし、前550年に滅ぼした。彼はイラン高原に勢力を伸ばして統一し、さらに短期間に小アジアに進出し、前546年にリディアも滅ぼした。前538年にはバビロンに入り、新バビロニアを滅ぼした。この時、「バビロンの捕囚」で捕らえられていたユダヤ人を解放し、旧約聖書にはキュロス大王は「解放者」として讃えられている。キュロス2世の時、ペルシアはエジプトを除くオリエント世界を支配する大帝国となった。

Episode マキアヴェリが評価するキュロス王

 キュロス王(2世)について、16世紀イタリアのマキアヴェッリは有名な『君主論』の中で、モーゼやロムルス(ローマの建国者)と並べ、「幸運とは無関係に、自分自身の力量によって君主になった人間」として、君主の一つのタイプとして論じている。「彼らの行動や生涯を調べてみると、いずれも運命から授かったものは、ただチャンスのほか何ひとつなかったことに気づく。しかもチャンスといっても、彼らにある材料を提供しただけであって、これを思いどおりの形態にりっぱに生かしたのは彼ら自身であった。・・・(キュロス王の場合は)ペルシア人がメディア王の統治に不満を持ったこと、メディア人がうちつづく泰平で軟弱になり、女々しくなっていることが必要だった。」<マキアヴェッリ『君主論』池田廉訳 中公クラシックス p.42>

Episode キュロス王のドラマ

 ヘロドトスによればキュロスが王位を継承するには次のようなドラマがあった。キュロスはアケメネス家のカンビュセスの娘マンダネが、メディア王アステュアゲスに嫁いで生まれた子であった。不思議な夢を見た父のメディア王は夢占いでこの子が将来父の王位を奪うことになると信じ、家臣に命じて生まれたばかりのこの子を殺すことを命じた。この家臣は赤子を殺すに忍びず、ある羊飼い夫婦が死産した子を身代わりにし、赤子を羊飼い預ける。羊飼いに育てられた少年キュロスは、周りの子どもたちと遊んでも皆から王様役に推されて、それを立派にやり通し、命令に背いた子どもを罰するなどの素質を示す。罰せられた子の親がキュロスを訴えたので、メディア王と対面することとなった。話してみて王は殺したと思っていた我が子であることに気づく。王は命令を守らなかった家臣に罰としてこんどはその家臣の子を殺し、キュロスは遊びで王位に就いたので夢のお告げは実現したと安心し、ペルシアに返すことにした。キュロスが成長すると、メディア王に子を殺された家臣がキュロスをそそのかし、メディア王に復讐することをすすめると、キュロスはメディアに支配されていることに不満を持っているペルシア人に呼びかけ、メディア王に戦いを挑み、それを倒してペルシアの覇権の第一歩としたのだった。<ヘロドトス『歴史』巻一 松平千秋訳 岩波文庫(上)p.86-104>

ユダヤ人を「バビロン捕囚」から解放

 キュロス2世はペールス北部のパサルガダエに壮麗な新都を築き、碑文を遺しているが、そこには宗教的信念を表明する文は見当たらない。しかし、宮殿遺蹟には二基の石の台座があり、これはゾロアスター教の火を祀る祭壇と思われる。従ってキュロスは、メディア王国時代にすでにイラン東北の中央アジアからイラン高原に及んでいたゾロアスター教を信じていたと考えられるが、新たな征服地にその宗教を強制することはなかった。その寛容の恩恵を受けたのがユダヤ人であり、彼らはバビロン捕囚から解放されてイェルサレムに戻り、神殿を再建することを許された。
 このことは「人類の宗教史にとっては特殊な例」であったが、ユダヤ人はその後もキュロスに好意を持ち続け、キュロス自身を「救世主(メシア)」と讃えている(『第二イザヤ書』)。その中の「わたし(ヤハウェ)はよろずの物を造り・・・わたしは地を造って、その上に人を創造した。天よ、上より水を注げ、雲は義を降らせよ。・・・」などの詩句はゾロアスターの聖典『アヴェスター』と驚くほどよく似ている。キュロス王の寛容が、ゾロアスター教の影響をユダヤ教に及ぼしたと考えられる。<メアリ=ボイス/山本由美子訳『ゾロアスター教』2010 講談社学術文庫 p.110-116>

キュロスの死とその墓

 キュロスは、帝国の北東の国境を脅かしていた同じイラン人で半遊牧民のマッサゲダイ族との戦いで死んだ。彼の死体は香詰めされてパサルガダエに戻され、そこの平野に今も残っている墓に安置された。ゾロアスター教では死体は汚れた物とされるので、人の手には触れられず、風葬にされるのが儀礼であったが、後のアケメネス朝やササン朝の王も香詰めにされているので、これが先例になったと思われる。風葬ではなかったがキュロス王の墓ははるか高い六段の石段の上に、厚い壁、窓もない部屋に置かれて人が触れることができないようにし、その戸口には不死の象徴である太陽の彫刻が施されている。後継者カンビュセス王はこの墓前で毎日羊と馬の供儀を続け、その後の王によっても200年にわたって続いたが、アレクサンドロス大王がペルシアを征服したときこの墓は暴かれ「金の寝台」などが持ち去られたという。<M=ボイス『同上』>
印 刷
印刷画面へ
ノートの参照
1章1節 カ.古代オリエントの統一
1章2節 キ.ペルシア戦争とアテネ民主政
書籍案内

マキャヴェリ『君主論』
池田廉訳 中公クラシックス

ヘロドトス『歴史』上
松平千秋訳 岩波文庫

M=ボイス/山本由美子訳
『ゾロアスター教』
2010 講談社学術文庫