印刷 | 通常画面に戻る |

エジプト末期王朝

新王国が滅亡した前12世紀以降、前4世紀までのエジプト。アフリカのクシュ王国の支配、アッシリア、ペルシア帝国の支配を受けた後、前332年にアレクサンドロスの征服を受けるまでをいう。その後のエジプトはヘレニズム時代を経て前30年にローマに征服された。

 古代エジプトにおいて、前12世紀、第20王朝のラメセス3世のころまではエジプト新王国は繁栄が続いたが、そのころから北方海上からの「海の民」の侵入が激しくなり、内紛もあって衰え始め、第20王朝は前1069年頃滅亡した。これまでをエジプト新王朝といい、その後のエジプトの第21王朝から最後の第31王朝までを末期王朝という。なお、そのうちの第24王朝までを第3中間期とすることも多い。
黒人王のエジプト支配 この間の第24、26王朝では都はナイル・デルタのサイスに置かれた。第25王朝はナイル上流の黒人王国クシュ王国が南下して一時エジプト全土を支配した王朝であり、黒人の王がファラオを名乗ってエジプトを支配した。

アッシリアによる支配

 その間メソポタミアには強力な統一国家アッシリアが成長し、エジプトに侵入してきた。そのためクシュ王国は前671年にエジプトを放棄してナイル上流(現在のスーダン)に後退した。前6世紀中ごろにメロエに都を置いてからはメロエ王国という。アッシリアのアッシュール=バニパル王前663年にエジプトを征服し、メソポタミアからアジプトを含む全オリエントを初めて統一しアッシリア帝国を出現させた。しかしアッシリアの専制政治はその武力依存体質から脱却できずに短期間で崩壊し、アッシリア滅亡後のオリエントは4国分立時代となり、エジプトには第26王朝が独立を回復した。

Episode エジプトのネコ2世

 第26王朝の王ネコ2世はパレスチナのユダ王国の支配をめぐって、新バビロニア王国ネブカドネザル王と争ったが、結局ユダ王国はネブカドネザル王に滅ぼされた(そのときバビロン捕囚が行われた)。また、ヘロドトス『歴史』によればネコ2世は前600年ごろ、フェニキア人が紅海を出発してアフリカを周回した航海を支援したという。

ペルシア帝国による支配

 イラン人のアケメネス朝ペルシアが台頭すると、前525年にそのカンビュセス2世がエジプトに遠征して第26王朝を征服、オリエントはアッシリアに続いて統一された。エジプトの王朝としてはこれを第27王朝といっているが、ペルシア人の支配する異民族王朝であった。その後の第28~第30王朝はエジプト土着王朝が独立を回復したが、前341年にはペルシアのアルタクセルクセス3世が軍隊を派遣してエジプト支配を再開し、第31王朝を建てた。

王朝時代の終わり

 ペルシア帝国支配時代には何度か独立を回復し、断続的にエジプトの王朝は第31王朝まで続いたが、前332年、マケドニアのアレクサンドロスによって征服されて、次ぎにその部将プトレマイオスによってプトレマイオス朝エジプトが成立する。これによって、古代エジプトの「王朝時代」は終わりを告げ、ギリシア系の支配するヘレニズム時代に移行する。

その後のエジプト

 プトレマイオス朝はギリシア系の支配者の国であり、ヘレニズム諸国の一つである。この時代に古代エジプト文明は次第に希薄になっていったが、王はファラオを称するなど、エジプトの伝統を継承していたのでエジプト王朝国家の要素も残していた。

ローマによる征服

 プトレマイオス朝は、最後の女王クレオパトラがローマのオクタウィアヌスとのアクティウムの海戦に敗れたため、前30年に滅亡した。その後のエジプトはローマの属州となり、ローマのラテン文明が支配的となり、エジプト文明の伝統は失われ、象形文字なども全く忘れ去られてしまった。プトレマイオス朝とローマ時代をエジプトの「グレコ=ローマン時代」という場合もあり、それはビザンツ帝国に継承された後、641年からのイスラーム時代を迎え、エジプトは三度目の文明の転換期を迎える。
印 刷
印刷画面へ