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ペルセポリス

アケメネス朝ペルシアのダレイオス1世が建設した、祭儀の首都。アレクサンドロス大王によって焼き討ちされ廃墟となった。

 アケメネス朝ペルシア帝国の都。ダレイオス1世が前520年頃に造営を開始し、クセルクセス、アルタクセルクセス1世の3代にわたって造営が続けられたという。壮大な石造宮殿群をもち、アケメネス朝の繁栄を示している。ペルセポリスという呼び方は「ペルシア人の要塞」の意味であり、ギリシア人がつけた名称で、ペルシア語では「タフテ・ジャムシード(ジャムシード王の玉座)」という。この都は、前330年、ペルシア帝国に侵入したアレクサンドロス大王によって焼き討ちされ、廃墟となってしまい、現在はシーラースの北の砂漠の中に遺跡として残されており、世界遺産に指定されている。パフレヴィー朝時代の1971年にイラン建国2500年祭がこの地で催されたことからわかるようにイラン人にとって特別な意味のある遺跡である。

ペルセポリスの建築

ペルセポリス
ペルセポリス アパダーナ(列柱のある広間)
 宮殿は平行四辺形に近い方形の基盤の上に築かれた。基盤の大きさは東西が約300m、南北が約428m、高さは12~14m。面積では12万平方mにおよんでいる。基壇の下には排水溝や貯水槽が造られている。基壇の南側正面にはダレイオス1世が三カ国語(古代ペルシア語・アッカド語・エラム語)で刻ませた碑文があり、そこには大王に貢納をもたらした諸国と諸民族が列挙されている。基盤の上に立てられた建物には、王の宮殿、後宮、宝蔵の他に、玉座の間、会議の間、アパダーナ(巨大な多柱式広間)、兵舎などがあり、それらが柱廊でむすばれていた。アパダーナの柱は36本あり、高さが19m、現在は失われているが天井を支えていた。周囲には5mの壁がめぐらされており、ここで発見された碑文には
「(余は)ダレイオス、偉大なる王、諸王の王、諸邦の王、アケメネス家のヒユスタスペスの息子、……神々のなかで最も偉大なるアフラ=マズダが余にこの王国を与えた。アフラ=マズダが余と余の王家を護りたまわんことを」
という文章が刻まれている。<森谷公俊『王宮炎上 アレクサンドロス大王とペルセポリス』2000 歴史文化ライブラリー 吉川弘文館 p.24>

Episode アレクサンドロスによるペルセポリスの焼き討ちの真相

 前330年、アレクサンドロス大王はペルセポリスに入り、4ヶ月滞在した上でこの王宮に放火し、そのために壮麗な宮殿は燃え落ちで廃墟となってしまった。現在見ることが出来るのはその廃墟のみである。このアレクサンドロスによるペルセポリス放火については古来二つの伝承があった。一つは大王の伝記作者アッリアノスが『アレクサンドロス大王東征記』で伝えるもので、それによると大王は熟慮の上計画的に放火したと述べている。もう一つの伝承は、ローマ時代の歴史家プルタルコスの『対比列伝』などで伝えられるもので、兵士たちと酒宴を催していた大王が酩酊し、たまたま同席していた遊女(名前はタイスという)にそそのかされて、側近たちとともに衝動的に火を放った、というものである。酒に酔ったアレクサンドロスが遊女にそそのかされて衝動的に放火したとすれば、話としては面白いが、この二つの伝承を子細に検討した森谷公俊さんは、衝動説には無理があると結論づけている。同氏はアレクサンドロスがペルセポリスに放火したのは、実は前330年にはギリシアの本土でスパルタのアギス王というものが反マケドニアの暴動を起こしており、それを憂慮した大王が、ペルセポリスに火を放つことによって、ペルシア戦争に対する報復というこの戦いの大義名分を改めて示そうととしたのではないか、と述べてている。<森谷公俊『王宮炎上 アレクサンドロス大王とペルセポリス』2000 歴史文化ライブラリー 吉川弘文館>

ペルセポリスの発掘

 19世紀後半からドイツ人やフランス人の手でペルセポリスの発掘が進められてきた。最近の発掘調査の成果によるとペルセポリスの全貌とともにアレクサンドロス大王の時の焼き討ちや略奪のあとがはっきりしてきたという。遺跡の各処には火災のあとが認められ、また雨風で遺跡のあちこちに堆積した瓦礫(2~3mもあった)の中からは、宝物の一部であったと思われる宝石や金属の一部分が混じっており、焼け跡が略奪され、壊れたものが棄てられたのだろうと推測されている。<森谷同上書>
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ノートの参照
1章1節 カ.古代オリエントの統一
書籍案内

アッリアノス
『アレクサンドロス大王東征記』上 岩波文庫

森谷公俊『王宮炎上 アレクサンドロス大王とペルセポリス』
2000 歴史文化ライブラリー 吉川弘文館