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イデア論

古典期ギリシアの代表的哲学者プラトンの中心的概念。人間の認識の背後にある、完全な真実の世界をイデア界とし、その影が現実に或るものと考えた。この観念論がヨーロッパ哲学の源流の一つとなった。

ラファエロの『アテネの学堂』(部分)
ラファエロの
『アテネの学堂』(部分)
 プラトンの思想の中核となる言葉で、不完全な現実の世界に対して、完全で真実である世界をイデアといい、プラトンによればそれは実存するのだ、という。彼はそれを説明するのに、有名な「洞窟の比喩」を使う。つまり、仮に牢獄である洞窟に閉じこめられていて、外の世界を知らない人は、外界から差し込む光による影だけが現実のものとして映る。それと同じように、実際の人が見ている現実は、イデア界の影にすぎないのだ、という。このプラトンの考えは、師のソクラテスから引き継いだ、ソフィストたちの相対主義的を克服して絶対的な「真理の探究」をめざすものであった。その弟子のアリストテレスは、プラトンのイデア論に対し、現実を真実のものと見ることを主張した。両者の考えの違いは、大まかに言えばプラトンの観念論とアリストテレスの経験論という二つの大きな潮流の源流となり、後の西洋の哲学に流れ込んでいく。

ラファエロの『アテネの学堂』

 ルネサンスの画家ラファエロの作品にヴァチカン宮殿「署名の間」の壁画『アテネの学堂』がある。倫理の教科書などでお目にかかるかもしれない。その中央に描かれているのあ、アテネのプラトンの学塾アカデメイアで語り合う二人を中心に、多くの学者、芸術家を拝した図である。中央の二人の左がプラトンで右がアリストテレスである。
 その二人の手をよく見ると、プラトンは天上を指し、アリストテレスは地上をさしている。これはプラトンがイデア界に真理が存在すると主張したのに対し、アリストテレスが現実の中に真実がある(形相を持つものが真実である)と反論していることを示している。アテネの学堂、つまりアカデメイアにおける二人の論争を描いているわけである。なお、この巨大な壁画にはギリシアの哲学者や科学者を描いているが、ラファエロや同時代の画家をモデルにしたという。一説には、プラトンはダ=ヴィンチをモデルにしたらしく確かにその自画像とよく似ている。

参考 イデア論「洞窟の比喩」

 プラトンはそのいくつかの対話編の中でイデア―善のイデア、美のイデアなど―について語っているが、最も集中的に論じているのが『国家』の第七巻で、そこでは「線分の比喩」と「洞窟の比喩」を用いて説明している。特に「洞窟の比喩」が有名で、プラトンの言うイデアを理解する手がかりとなる。
 洞窟の奥深くに捕らえられている囚人が、子供の頃から手足も首も縛られたまま、洞窟内の火の光でできた壁に映る影しか見ることができないとすれば、その影が真実のものと信じるだろう。プラトンは現実のわれわれがその囚人と同じだという。つまり、私たちが現実に見ているもの(経験できること)は真実ではなく、影にすぎず、それは生まれたり消えたり、不完全なものである。囚人が縛めを解かれて上に登って行って洞窟の外に出たとき、初めは目がくらんでなにも見えないが、目が慣れるに従って影では無いもの、そして太陽そのものを知ることができる。それが真実であり、普遍的で完全なイデアである。
(引用)つまり、視覚を通して現れる領域というものは、囚人の住いに比すべきものであり、その住いの中にある火の光は、太陽の機能に比すべきものであると考えてもらうのだ。そして、上へ登って行って上方の事物を観ることは、魂が<思惟によって知られる世界>へと上昇して行くことであると考えてくれれば、僕が言いたいことだけは――とらえそこなうことはないだろう。(中略)
――知的世界には、最後にかろうじて見てとれるものとして、<善>の実相(イデア)がある。いったんこれが見てとれたならば、この<善>の実相こそはあらゆるものにとって、すべて正しく美しいものを生み出す原因であるという結論へ、考えがいたらなければならぬ。すなわちそれは、<見られる世界>においては、光と光の主とを生み出し、<思惟によって知られる世界>においては、みずからが主となって君臨しつつ、真実性と知性とを提供するものであるのだ。<プラトン/藤沢令夫訳『国家』下 岩波文庫 p.101>

参考 美のイデア

 プラトンは「善」や「美」などの抽象的な価値も、現実界のそれは不完全なものであるのに対し、イデア界にその真実の価値があると説く。ここでは真実の「エロス」とは何かをソクラテスなどが議論し合うと言う構成をとるプラトンの作品『饗宴』を見てみよう。この書でソクラテスにエロスの本質を教える巫女のディオティマの口をつうじて宣べられているプラトンの「美のイデア」論を知ることができる。
(引用)まず第一に、それは常住に在るもの、生ずることもなく、滅することもなく、増すこともなく、減ずることもなく、時としては美しく時としては醜いということもなく、またこれと較べれば美しく彼と較べれば醜いというようなものでもなく、またある者には美しく見え他の者には醜く見えるというように、ここで美しくそこで醜いというようなものでもない。・・・<プラトン/久保勉訳『饗宴』岩波文庫 p.133>
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ノートの参照
1章2節 コ.ギリシアの生活と文化
書籍案内

プラトン/藤沢令夫訳
『国家』下
1979 岩波文庫

プラトン/久保勉訳
『饗宴』
1952 岩波文庫

藤沢令夫
『プラトンの哲学』
1998 岩波新書