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アリストテレス

ギリシア古典期の哲学者で、プラトンの後継者、あるいは批判者としてギリシア哲学を大成した人物。攻勢にも大きな影響を与え「諸学の父」といわれる。

 前4世紀にギリシアで活動した哲学者で、ソクラテス、プラトンらの哲学を継承し、体系づけて「諸学の父」ともいわれ、後の諸科学に多大な影響を与えた。アリストテレス(前384~322年)はマケドニアの生まれでアテネに行き、17歳でプラトンのアカデメイアに入学し、20年間そこで学んだ。
 アリストテレスはマケドニアのエーゲ海北岸、スタゲイラというポリスで生まれ、アテネに来て学んだが、アテネにおいてはメトイコイ(在留外人)であり、市民権法によってポリスの市民権は与えられていなかった。その点ではアテネ市民であったソクラテス、プラトンとは異なり、アテネに対する帰属意識は薄かったと思われる。
アレクサンドロスの家庭教師となる マケドニアのフィリッポス2世に招かれ王子アレクサンドロスの家庭教師となったことは有名。カイロネイアの戦い(前338年)でフィリッポス2世がアテネやテーベなどのポリス連合軍を破り、ポリスの時代は終わりを告げた。
学塾リュケイオンの設立   アレクサンドロス大王が即位した年にアテネに戻り、リュケイオンという学校を開いて教育にあたった。彼の学派はリュケイオンの歩廊(ペリパトス)を逍遙しながら議論したので、ペリパトス(逍遙)派と言われた。そしてアレクサンドロス大王が死んだ翌年の前322年に、アテネで死去した。

アリストテレス哲学の継承

 彼はソクラテス・プラトンの後継者としてギリシア哲学を完成させただけでなく、あらゆる分野の学問に及び、著著は『形而上学』『倫理学』『政治学』など多数を数え、「諸学の父」といわえて後の思想に大きな影響を与えた。師のプラトンに対しては、その「イデア論」を批判して、現実を客観的に認識する、経験論を展開した。 → ラファエロの描く「アテネの学堂」を参照
 彼の思想は、ギリシアのポリスが衰退した後は、ヘレニズム時代を経てイスラームに継承され、アッバース朝の知恵の館で研究されてイブン=シーナーなどアラビアの学問に大きな影響を与えた。さらに13世紀のコルドバのイブン=ルシュドによってその著作はアラビア語に翻訳され、さらにイベリア半島のトレドの翻訳学校でアラビア語からラテン語に翻訳されてヨーロッパに知られるようになった。中世ヨーロッパのトマス=アクィナスによって大成されたスコラ学(哲学)は、アリストテレスの体系とキリスト教神学とを調和させて成立したとされている。

Episode 「ミネルヴァのフクロウは夕暮れに飛びたつ」

 アリストテレスの晩年は恵まれなかった。アリストテレスは「人間はポリス的動物である」というかれの言葉通りポリス的世界に忠実であったが、彼が教えたアレクサンドロスはポリス世界を破壊し「世界帝国」を作った。皮肉にもアテネでのアリストテレスの名声はアレクサンドロスの後ろ盾があってのことと考えられていた。前323年、そのアレクサンドロスが死ぬと、アテネで激しい反マケドニア運動が起き、アリストテレスの立場も危うくなった。彼は「アテネ市民が再び哲学を冒涜しないように」、リュケイオンを弟子に託してカルキスに亡命し、翌322年に胃病で死んだ。はるか後にヘーゲルは「ミネルヴァのフクロウは夕暮れに飛びたつ」と言ったが、ミネルヴァのフクロウとは知恵の女神のことで、「哲学とは一時代の終わりに、その時代を概念的に総括するために登場するものなのだ」と言うほどの意味である。アリストテレスの飛びたった後にはコスモポリタニズムが新しい思考として現れてくる。<熊野純彦『西洋哲学史/古代から中世へ』2006 岩波新書 p.116 などによる>
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熊野純彦
『西洋哲学史
/古代から中世へ』
2006 岩波新書