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プラトン

前4世紀、古典期ギリシアを代表するアテネの哲学者。ソクラテスの弟子として思索を深め、イデア論などの認識に達し、理想的国家のあり方を国家論で展開した。アテネに学塾アカデメイアを開設した。

 プラトン(Platon 前427~前347)はソクラテスの弟子で、古代ギリシア哲学の最盛期であった前4世紀のアテネを代表する哲学者。彼が生まれたのはペロポネソス戦争が始まって4年目、ペリクレスの死後2年目にあたり、アテネの民主政が大きな岐路にさしかかり、ポリスの衰退期に向かおうとしていた時期であった。プラトンは名門の出であったがアテネの政治に関わることはなく、前399年に師のソクラテスが、民主政にとって有害であるとして民主派政権の手によって裁判にかけられ、有罪となって刑死してからは、フィロソフィア(知を愛する者)としての思索生活に入った。プラトンの著書はその師のソクラテスの対話という形の対話編として、『ソクラテスの弁明』や、『饗宴』、『パイドロス』、『国家論』など多数ある。何度かシラクサにおもむき、理想政治を実現しようとしたが失敗し、アテネで学園アカデメイアを創設して、弟子たちとの議論に明け暮れ、ギリシア北方のマケドニアフィリッポス2世(前359年即位)が台頭し、その脅威が迫るなか、前347年にアカデメイアで亡くなり、構内に葬られたという。なお、プラトンは生涯、独身であった。
イデア論 プラトンの思想の中心となるのはイデア論といわれるもので、現実の世界は、真実の世界(イデア)の影のようなものであるととらえ、それを探求した。人がイデア界の最善最美にあこがれるのがエロースであるであり、それを認識するにいたる方法は、師と同じく対話(ディアレクティケー)にあると説いた。
国家論 彼は多くの対話編を書いて名声を高め、そのような中でポリス政治のあり方にも理想を求めるようになり、『国家』で哲人政治の実現を模索した。その国家論では、現実のアテネの政治を批判的に論じ、徳のある哲人が国を治め(哲人政治)、軍人が防衛し、市民が文化を担うという分業国家を理想とした。奴隷は労働をになう分業社会の一員として肯定されている。

プラトンとシラクサ

 そのような理想国家をシチリア島のシラクサで実現しようとした。シラクサでは僭主であったディオニュシオスに請われて、理想の政治を目指した。プラトンが徳をもって治めることを説いたことに機嫌を損じた僭主ディオニュシオスは「君の言葉は年寄りじみている」と言ったので、プラトンは「あなたの言葉こそ僭主じみている」と応酬したため、二人の仲は決裂し、アテネに帰った。その晩年にはディオニシオスの後見役であったディオンに請われて、60才で再びシラクサにおもむき、政治顧問のような任務に当たり、若い王(ディオニュシオス2世)の教育を試みたが、ディオニュシオス2世もプラトンを煙たがり、ディオンと共に退けてしまったので、結局シラクサを去った。
 なおディオニュシオス2世は、「ダモクレスの剣」の故事で知られている僭主である。ダモクレスの剣については核兵器開発競争の項を参照。

Episode プラトン、奴隷に売られる

 プラトンの無礼な言葉に腹を立てた僭主ディオニュシオスはプラトンを死刑にしようとしたが、ディオンらになだめられて、折良く外交使節として来ていたスパルタに奴隷として売り飛ばすことにして、プラトンを引き渡した。スパルタ人によってアイギナ島に連れて行かれたプラトンは、その地で売りに出されることになった。たまたまキュレネ人のアンニケリスという人がこの地に来ていて、彼が20ムナの身代金を払ってプラトンを解放してやり、アテネに送り返してやった。彼の払った身代金はシラクサに届けられたが、ディオンはそれをアンニケリスに送り返した。アンニケリスはその金を受け取らず、プラトンのためにアカデメイアにある小庭園を買い与えたという。<ディオゲネス=ラエルティウス/加来彰俊訳『ギリシア哲学者列伝』上 岩波文庫 p.264-264 要約>

プラトンとアリストテレス

 プラトンの思想は多岐にわたるが、その中心に在るのはイデア論と言われる、普遍的で完全な真実の世界を思弁によって認識しようとする哲学であり、その面ではソフィストの相対主義を克服したソクラテスの絶対的な真理の探究を押し進めており、またその方法として、師の対話法を継承、発展させ弁証法的な論理を組み立てていった。また観察だけに依拠する自然哲学の経験論をも批判的に乗り越え、その思想は弟子のアリストテレスに批判的に継承されることとなった。
 アリストテレスはプラトンの弟子としてアカデメイアで学びながら、次第に師のイデア論から離れ、真理を観念の世界ではなく現実の中に求めることをめざし、経験論的、科学的、合理的な真理探究の方法を探っていく。プラトン的な超現実的なイデア論は後に、ヘレニズム時代を経てユダヤ教やキリスト教の神学と結びつき、新プラトン主義となって現れてくるが、アリストテレスの体系的哲学は、イスラーム世界をつうじてヨーロッパに伝えられて、キリスト教神学と結びついてスコラ哲学へと進んでいく。プラトンのイデア論に対してアリストテレスが疑問を呈し、両者が議論を戦わせたであろう様子を再現した絵がラファエロの描く「アテネの学堂」である。

Episode 世に与しなかった?プラトン

 プラトンの生まれた年は、紀元前429年という説もある。とすると、生没年代の前429年~前347年を、「世に与(くみ)しなかった」、と訓むことができる、と言っているのは加藤尚武『ジョーク哲学史』<1983 河出書房新書 p.36>
 プラトンが世に与しなかったというのは、彼の国家論がアテネでは採り入れられなかったと言うことだろう。結局失敗しているが、シラクサでは大いに「世に与した」といえる。彼の死んだ前347年は「サヨナら」とも訓める。

プラトンの著作の伝承

 紀元前4世紀のプラトンの著作は、その大部分が現在まで残されており、現代のわれわれが読むことができる。ソクラテスの諸作は一切残っておらず、プラトンの著作を通じてしか、その思想と行動を知ることができない。それにたいしてプラトンのこれだけの著作が文献として残されているのは、古代思想家としては希有のことである。ではどのようにしてプラトンの著作は現在まで伝えられたのであろうか。
 プラトンには35ほどの対話篇と13通の書簡(一部には偽作もあるとされている)があるが、それらはパピルス(ギリシアではパピュロス)紙の巻物に記されて学園アカデメイアでプラトンの弟子たちによって大切に保管された。ヘレニズム時代になると、アレクサンドリアの図書館(ムセイオン)で研究、保管されたことで、その著作が後世に伝えられることになった。紀元後1世紀にトラシュロスという学者によって、プラトンの著作は9つの四部作集に編纂され、『プラトン著作集』にまとめられた。
 ローマ時代になると、5世紀ごろから羊皮紙に転写されるようになったが、この時多くの書物が失われる中で、『プラトン著作集』は羊皮紙の冊子本として伝えられることとなった。いわゆる12世紀ルネサンスで、ギリシア語文献がアラビア語を介してラテン語訳されるようになり、プラトンの著作もヨーロッパで知られるようになった。ルネサンス期に活版印刷術が始まり、 15,16世紀には『プラトン著作集』も活字本として誰でもが読めるようになった。<納富信留『プラトンとの哲学』2015 岩波新書 などによる>
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書籍案内

ラエルティウス/加来彰俊訳
『ギリシア哲学者列伝』上
岩波文庫

藤沢令夫
『プラトンの哲学』
1998 岩波新書

加藤尚武
『ジョーク哲学史』
1983 河出文庫

納富信留
『プラトンとの哲学』
2015 岩波新書