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アカデメイア

前4世紀、古典期ギリシアのアテネでプラトンが開設した学園。ギリシア哲学の研鑽の場となり、紀元後6世紀まで存続し、アカデミーの語源となった。

 プラトンアテネの郊外に設けた学園。アカデメイアの名は、設置された場所が英雄アカデモスをまつる神域だったからとされる。また、Akademeia が、英語の Academy の語源となった。学園にはオリーブの林があり、プラトンはそこを逍遙しながら思索にふけったという。プラトンは、ポリス国家の理想的な国政参加者を養成することを目指したようだが、むしろ哲学・数学・天文学など純粋な学問の場として存続した。
 プラトンの弟子のアリストテレスの創設した学園はリュケイオンといった。
 アカデメイアはプラトン没後も継承され、長く続いたが、529年に東ローマ帝国のユスティニアヌス帝の命によって異教の学校として閉鎖された。多くのギリシア人学者はササン朝に移り、ホスロー1世の保護を受けた。

Episode 笑いが禁止されたアカデメイア

 ローマのアイリアノスが著した『ギリシア奇談集』には、アカデメイアに関わる面白い話をいくつか載せている。<アイリアノス/松平千秋・中務哲郎訳『ギリシア奇談集』1989 岩波文庫 p.74>
  • 質素な食事 アテネの将軍ティモテオスは、将軍たちの会食の贅沢な食事に飽きていたとき、プラトンからアカデメイアでの饗宴に招待された。そこで質素ながらも風雅なもてなしを受け、帰宅すると「プラトンのところで食事をすると、翌日も気持ちよく過ごせる」と家人に語った。翌日、ティモテオスはプラトンにばったり出会い、「プラトンさん、あなた方は今日のためというより明日のために食事をしておられる。立派だ」と言ったという。ティモテオスは、贅沢で重い食事は翌日に何の喜びももたらさぬと非難したわけである。<巻2 18 p.73>
  • 笑うことが禁じられていた これもよく広まっているアッティカ地方の話。以前はアカデメイアにおいて笑うことはゆるされていなかったというのであるが、それは、不規律や精神の弛緩をこの場所に立ち入らせぬための措置であった。<巻3 35 p.134>
  • プラトンは移転を拒否した アカデメイアの土地が、健康によくないと言われており、リュケイオンに移転するよう医師たちが勧めたとき、プラトンは「私はたとえ行先がアトス山であっても、人より長生きをするために移転したくはない」と言って承知しなかった。(註 アトス山はギリシア北方にあり、そこに住む人は長寿を保つといわれたらしい。)

ルネサンス期のプラトン=アカデミー

 アカデメイアは東ローマ帝国のユスティニアヌス帝によって529年に閉鎖されたが、ビザンツ帝国のもとでギリシア人の中でのプラトン思想の伝承と研究は続いた。さらにビザンツ帝国がイスラーム国家であるオスマン帝国によって脅かされ、1453年にコンスタンティノープルが陥落して滅亡すると、その前後に多くのギリシア人学者がイタリアに亡命した。それはイタリアのルネサンスの古典復興に大きな刺激となり、フィレンツェコシモ=ディ=メディチの手によってプラトン=アカデミーが設けられ、多くの人文学者によってギリシア古典が研究されることとなった。
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ノートの参照
1章2節 コ.ギリシアの生活と文化
書籍案内

アイリアノス
/松平千秋・中務哲郎訳
『ギリシア奇談集』
1989 岩波文庫

2~3世紀のローマ人、アイリアノスが集めた古代ギリシアの逸話集。モンテーニュの『エセー』や吉田兼好の『徒然草』のような深さはないが、ギリシアの人物や出来事にまつわる珍談・奇談の宝庫で楽しい。