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アカデメイア

前4世紀、古典期ギリシアのアテネでプラトンが開設した学園。ギリシア哲学の研鑽の場となり、紀元後6世紀まで存続し、アカデミーの語源となった。

 プラトンアテネの郊外に設けた学園。アカデメイアの名は、設置された場所が英雄アカデモスをまつる神域だったからとされる。また、Akademeia が、英語の Academy の語源となった。学園にはオリーブの林があり、プラトンはそこを逍遙しながら思索にふけったという。プラトンは、ポリス国家の理想的な国政参加者を養成することを目指したようだが、むしろ哲学・数学・天文学など純粋な学問の場として存続した。
 アカデメイアには出身地を問わず、アテネ以外の外国から入門した学生も多く、女性の学生もいた。北方のマケドニア出身のアリストテレスもここで学んだ。授業はプラトンの講義形式はほとんど行われず、議論によって審議を検討する問答法(ディアレクティケー)で行われた。
 後にアリストテレスは、プラトンのイデア論を批判し、独自の哲学体系をつくりあげ、アカデメイアとは別に学園リュケイオンを創設した。
 アカデメイアは前347年のプラトン没後も継承され、長く続いたが、529年に東ローマ帝国のユスティニアヌス帝の命によって異教の学校として閉鎖された。多くのギリシア人学者はササン朝に移り、ホスロー1世の保護を受けた。

プラトンとアカデメイア

(引用)プラトンは、師(ソクラテス)が冒した危険を避け、より永続的で純粋に哲学を遂行する途を探ります。それは、独立で自由に言論を語る空間の創出でした。人々が金銭や名誉を追求し政治闘争に現(うつつ)を抜かす街のただ中で、ソクラテスのように無防備に哲学の言葉を発しつづけることは、もはや困難に思われました。彼の刑死(399B.C.)を契機に、プラトンは祖国の政治から身を遠ざけます。そして、ソクラテスが見本を示した哲学に従事し、政治や人生を正しく考察するために、アテナイの街区を離れて学問との共生の拠点を構えるのです。その土地がアカデメイアでした。
 アクロポリスの丘の北西、城壁の門から1キロ半ほどに、「ヘカメディア」と呼ばれる聖地がありました。英雄ヘカデモスに由来し、アテネ女神や双子神カストルとポルックスに捧げられた社のある神聖な森です。そこには、身体の鍛錬にいそしみながら会話や社交をくり広げる体育館がありました。その美しい神域の一角に、心の通う仲間と共同生活を送りながら議論を行うプラトンの学園が創設されたのです。
 そこは、永続的に哲学に従事するのに最適な、閑静な聖地でした。学園アカデメイアは、ヘレニズム時代からローマ帝国の時代まで、900年にもわたって学問の中心地となりました。後529年、キリスト教徒の東ローマ皇帝ユスティニアヌス1世が異教の学校を閉鎖する命令を出し、最後のプラトンの徒(プラトニチ)たち、学頭ダマスキオスやその弟子シンプリキオスらがアテナイを離れることになります。しかし、「アカデメイア」の名称と精神は、自由で自立的な学問営為シンボルとして、西洋文明、そして世界で今も息づいています。・・・
 プラトンは前347年、80歳で世を去りました。生涯独身で子をもうけず、甥のスペウシッポスが学園を継ぎます。プラトンの亡骸は、アカデメイアの地に葬られたと言います。一部が発掘されたこの地域から、彼の墓碑はまだ出土していません。体育館を遺構を囲む森では、プラトンの時代と変わらず、蝉の声が私たちを包んでいます。<納富信留『プラトンとの哲学』2015 岩波新書 p.4-6,p.9>

Episode 笑いが禁止されたアカデメイア

 ローマのアイリアノスが著した『ギリシア奇談集』には、アカデメイアに関わる面白い話をいくつか載せている。<アイリアノス/松平千秋・中務哲郎訳『ギリシア奇談集』1989 岩波文庫 p.74>
  • 質素な食事 アテネの将軍ティモテオスは、将軍たちの会食の贅沢な食事に飽きていたとき、プラトンからアカデメイアでの饗宴に招待された。そこで質素ながらも風雅なもてなしを受け、帰宅すると「プラトンのところで食事をすると、翌日も気持ちよく過ごせる」と家人に語った。翌日、ティモテオスはプラトンにばったり出会い、「プラトンさん、あなた方は今日のためというより明日のために食事をしておられる。立派だ」と言ったという。ティモテオスは、贅沢で重い食事は翌日に何の喜びももたらさぬと非難したわけである。<巻2 18 p.73>
  • 笑うことが禁じられていた これもよく広まっているアッティカ地方の話。以前はアカデメイアにおいて笑うことはゆるされていなかったというのであるが、それは、不規律や精神の弛緩をこの場所に立ち入らせぬための措置であった。<巻3 35 p.134>
  • プラトンは移転を拒否した アカデメイアの土地が、健康によくないと言われており、リュケイオンに移転するよう医師たちが勧めたとき、プラトンは「私はたとえ行先がアトス山であっても、人より長生きをするために移転したくはない」と言って承知しなかった。(註 アトス山はギリシア北方にあり、そこに住む人は長寿を保つといわれたらしい。)

ルネサンス期のプラトン=アカデミー

 アカデメイアは東ローマ帝国のユスティニアヌス帝によって529年に閉鎖されたが、ビザンツ帝国のもとでギリシア人の中でのプラトン思想の伝承と研究は続いた。さらにビザンツ帝国がイスラーム国家であるオスマン帝国によって脅かされ、1453年にコンスタンティノープルが陥落して滅亡すると、その前後に多くのギリシア人学者がイタリアに亡命した。それはイタリアのルネサンスの古典復興に大きな刺激となり、フィレンツェコシモ=ディ=メディチの手によってプラトン=アカデミーが設けられ、多くの人文学者によってギリシア古典が研究されることとなった。
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ノートの参照
1章2節 コ.ギリシアの生活と文化
書籍案内

納富信留
『プラトンとの哲学』
2015 岩波新書

アイリアノス
/松平千秋・中務哲郎訳
『ギリシア奇談集』
1989 岩波文庫

2~3世紀のローマ人、アイリアノスが集めた古代ギリシアの逸話集。モンテーニュの『エセー』や吉田兼好の『徒然草』のような深さはないが、ギリシアの人物や出来事にまつわる珍談・奇談の宝庫で楽しい。