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ボルネオ島/カリマンタン島

東南アジアの諸島部にある大きな島。南部をカリマンタンという。北部はマレーシア(一部ブルネイ)、南部がインドネシア領となっている。

日本より大きい島

カリマンタン島
ボルネオ/カリマンタン島
Yohoo Map による
 東南アジアの諸島部(島嶼部)にある島。世界第3位の面積を持つ巨大な陸地で、面積約57万平方km(日本は全土で37万平方km)。現在はマレーシア、ブルネイ、インドネシアの三国に領有されている。マレーシア領は島の北西側で、北のサバ州と南のサラワク州に分かれる。サラワク州の北に小さなブルネイ王国がある。中央山脈の南側がインドネシア領でカリマンタンという。海岸部にはいくつかの港市が発達しているが、内陸は山岳部には密林、平野部には湿地が広がっており、オランウータンなど野生動物の宝庫であった。しかし最近や石油など地下資源の開発で熱帯雨林が急速に減少している。
 民族的には原住民のダヤク人と海洋民であるマレー系の諸民族、さらに中国系の華人が混在している。北部のマレー系住民は、フィリピンのスルー諸島やミンダナオと関係が深く、イスラーム教徒である。また現在のブルネイ王国もイスラーム教を奉じた原住民がスルタン(サルタン)を称したもの。
 ボルネオの周辺の海洋民であるイスラーム教徒は海賊として恐れられており、また内陸のアニミズムにとどまる原自民の中には首狩りの習慣があったりして恐れられ、東南アジアでもヨーロッパ勢力の進出が最も遅れたところであった。

マレーシアとインドネシアの争い

19世紀にはイギリス人のジェームズ=ブルックと言う人物が北部ボルネオの北部のサラワクをブルネイ王から買い取って、自らサラワク王を名乗り、後にイギリス領に編入された。南部はオランダが進出し、その植民地とされた。そのような植民地の歴史が前提となったため、イギリス領サラワクとサバは1963年、マレーシア連邦に組み込まれ、オランダ領カリマンタンは第二次世界大戦後に独立したインドネシア共和国領となった。インドネシアのスカルノは、サラワクとサバのマレーシア連邦への編入に反発してマレーシア連邦を承認せず、1965年にマレーシア連邦が国際連合に加盟すると、インドネシアは脱退した。 → 現代のインドネシア

Episode ボルネオの白人ラジャ

 北部ボルネオのサラワクに王国を築いたイギリス人がいる。彼はジェームズ=ブルックといい、インドで判事をしていたイギリス人の子として生まれ、本国で教育を受けたが悪童ぶりが祟って放校となったためインドに戻り、第1次ビルマ戦争に従軍して負傷した。36歳で父の遺産を引継ぎ、一旗揚げようとボルネオにやってきた。そこでブルネイ王のために海賊鎮圧で功績を挙げ、1842年、ラジャ(太守)としてサラワクを治めることになった。事実上の白人王国の誕生である。彼と彼の後をついだ甥のリチャードが二代にわたってサラワク王として君臨することとなる。このサラワク白人王国は、ブルネイ王国から土地を次々と買い増し、領土を広げていった。それが現在のマレーシア領サラワク州のもとである。二代目のリチャードは、イギリス流の植民地支配を押しつけるのではなく、首狩り族として知られるイバン族などを兵士に採用して周辺の海賊を鎮定するなど、独自の王国を建設した。 <くわしくは、鶴見良行『マングローブの沼地で』1983 朝日新聞社 p.297 白人ラジャ を参照>
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書籍案内

鶴見良行
『マングローブの沼地で
―東南アジア島嶼文化論への誘い』
1994 朝日選書