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インドネシア

東南アジアの諸島部の多くの島々からなる大国。オランダの植民地支配から独立し、第三世界の有力な一角となった。

 ジャワ島ボルネオ島(カリマンタン、その一部はマレーシアとブルネイに属す)、スマトラ島など多数の島(といってもスマトラ島、ボルネオ島は日本列島よりも広い)からなる諸島部(島嶼部)を占める現在のインドネシアは東南アジアの大国である。特に香料諸島といわれたモルッカ諸島では早くから香辛料の産地として栄えた。ただし、現在のインドネシア第2次世界大戦後に新たに生まれた国家であり、それ以前には様々な国家が興亡した。

インドネシアという名称について

 現在では「インドネシア」という地名としても定着しているが、この名称は比較的新しい造語である事に注意する。1850年にシンガポールのイギリス人弁護士でジャーナリストだったローガンが、東南アジア諸島部全域を示す地理的用語として、「インド」にギリシア語で島の意味のネーソスの複数形ネシアをくっつけて造語した。一般に広がったのは、1920年代にマレー人の民族運動が強まった時期に、彼らは「オランダ領東インド」という呼称を嫌い、「インドネシア」を民族のアイデンティティを示すものとして使用するようになってからである。マレー語やマレー人に替わってインドネシア語やインドネシア人という言い方も普通になった。そしてオランダから独立したときにインドネシア共和国という国号が選ばれた。
 → (1)島嶼部での王朝の興亡  (2)オランダによる植民地支配  (3)日本軍の侵攻とジャワ・スマトラ分離  (4)インドネシア共和国の独立  (5)スカルノの時代  (6)スハルトの開発独裁  (7)現在のインドネシア

インドネシア(1) 島嶼部での王朝の興亡

 現在のインドネシアの統治する地域の歴史的な歩みをまとめると、つぎのようになろう。

仏教国とヒンドゥー教国

 主としてマラヤ=ポリネシア系の人々が居住した島嶼部は、インド洋交易圏との結びつきが強く、いくつかの港市国家が生まれた。マレー半島からスマトラ島に賭けてシュリーヴィジャヤ王国が7~14世紀まで栄え、中国では室利仏逝(または三仏斉)と言われた。ジャワ島では8~9世紀にシャイレーンドラ朝のもとで仏教文化が栄え、ボロブドゥール寺院などが造営された。そのころジャワ島中部にはヒンドゥー教国の古マタラム王国があった。その後、ジャワ島東部には、11世紀にクディリ朝、13世紀にはシンガサリ朝があり、独特の芸能であるワヤン=クリなどが生まれた。13世紀のジャワ島のヒンドゥー教国マジャパヒト朝は元の侵攻から独立を守った。

イスラーム教の王国

 そのころから東南アジアのイスラーム化が始まり、スマトラ北部にはサンドラ=パサイ王国、ジャワ島東部にはマタラム王国が現れ、さらにジャワ島西部にはバンテン王国があって抗争した。また、スマトラ北部にはアチェ王国が生まれた。

インドネシア(2) オランダによる植民地支配

オランダの進出

 島嶼部は香辛料貿易が行われ、ムスリム商人や中国商人も活動していたが、16世紀にはスペイン船をはじめとするヨーロッパ諸国がその利益を目ざして進出するようになり、17世にはオランダ東インド会社を設けたオランダが、ジャワ島のバタヴィアに拠点を置き、1623年のアンボイナ事件でイギリス勢力を排除して、植民地化に乗り出した。

オランダ領東インド

 オランダ領東インドとしての植民地支配に対しては、ジャワ戦争パドリ戦争アチェ戦争などの抵抗があったが、1830年からは強制栽培制度を開始し、サトウキビ、コーヒーなどの農業生産の利益を吸い取るしくみを作り上げた。

インドネシアとしての独立運動

 それに対して、インドネシア民族主義運動がようやく活発となり、ブディ=ウトモイスラーム同盟などの組織的動きとなっていった。オランダに対する激しい民族抵抗運動はやがて、この地域を単一の国家インドネシアの独立運動へと高まって行き、スカルノを指導者として第二次世界大戦後の1950年にインドネシア共和国として独立した。

インドネシア(3) 日本軍の侵攻とジャワ・スマトラ分離

太平洋戦争の過程で、1942年1月に日本軍がオランダ領東インドへの侵攻を開始、オランダ軍を降伏させ、占領した。日本はジャワとスマトラを分離して統治した。

 日本軍が南進策をとり、フランス領インドシナを制圧し、さらに南下してオランダ領東インドであるインドネシアの島々を支配下に納めようとしたのは、アメリカが対日石油輸出を禁止し、石油資源の不足が問題となったからであった。そのような意図から、太平洋戦争の開始に伴い、日本軍はのオランダ領東インド攻略作戦を開始しインドネシアに侵攻した。  まず、1942年1月のタラカン島とスラウェシ島への上陸作戦から始まり、2月にはスマトラのパレンバンに落下傘部隊を降下させ、占領した。次いで3月にジャワ島の三カ所に上陸、5日に首都バタヴィア(現ジャカルタ)を占領、9日にオランダ軍が全面降伏した。

日本軍のジャワ・スマトラ分離統治

 日本軍部は、スマトラ島マレー半島部のマレー人の種族的一体性を重視していた。そのため、軍政上は、スマトラはジャワから分断され、マレー半島と一体のもとして扱われた。これは、シュリーヴィジャヤマラッカ王国の伝統が、侵略者の都合で復活されたかりそめの栄光である。この政策は、占領後期には放棄され、戦後は、オランダが島々に、イギリスが半島に復帰するため、二つの植民地は別々の途を歩むことになる。<鶴見良行『マラッカ物語』1981 時事通信社 p.309>

日本の軍政

 1942年3月から1945年8月まで、インドネシアに対する日本軍による軍政が行われた。日本は太平洋戦争の大義名分として、アジアの解放を実現し「大東亜共栄圏」を建設することを掲げていたが、実際には石油などの軍需物資を確保するためにインドネシアに進出した。
 インドネシアにもスカルノなどの民族主義運動は独立のために日本軍に協力する姿勢を示した。日本軍は祖国防衛義勇軍(ペタ)を組織するなど軍事組織や隣組制度などを導入して統治に当たったが、軍政後半になると人的資源を「ロームシャ(労務者)」として動員し、軍事作戦に振り向けた。このような日本の軍政に対し、いくつかの反日抵抗運動が起こっている。防衛義勇軍の反乱、米の供出を拒んだ農民の反乱、西カリマンタンの土侯らによるポンティアナック事件(軍事裁判で2130人が処刑されている)などである。<『インドネシアの事典』同朋舎 p.312,360>

Episode 今も残るロームシャの悪夢

 日本軍政下でインドネシア民衆の義務となったのが戦争遂行に徴用した「労務者」である。
(引用)各州は常に500人以上の労務動員が可能な態勢を整えていなければならなかった。この政策で駆りだされたジャワ人は20万とも30万ともいわれ、しかもその90%は帰還できなかったという。その多くがニューギニア方面の苦戦に投入され、放置されたのである。今日でも、ロームシャは、ケンペイとともに、インドネシア人の悪夢となっている。1973年にジャワで『ロームシャ』という映画が製作され、ごく一部で公開されたが、不思議なことにすぐ消えてしまった。日本商社が買い占めたのだというのが現地の噂である。」<鶴見良行『マラッカ物語』1981 時事通信社 p.315>

インドネシア(4) インドネシア共和国の独立

1945年8月、日本の軍政が終わりインドネシア共和国が独立宣言をしたがオランダが認めず、植民地支配を再開。激しい独立戦争を戦い、1949年のハーグ協定でインドネシア連邦として独立。翌1950年に全土がインドネシア共和国に統合された。

 1945年8月から1950年8月までの5年間にわたるインドネシア共和国独立の歩みは複雑であるが、次のようにまとめることができる。

日本軍の降伏

 1942年3月にインドネシアに侵攻し占領した日本軍は、軍政を敷いて統治した。日本政府は当初は資源確保のためにインドネシアは独立させずに軍政を維持する予定であったが、戦局が悪化する中、民心をつなぎ止めておく必要から、1944年9月にインドネシアの独立を認め、日本の指導下での独立計画が立案された。独立準備委員会が設置されたが、その計画が実施される前に1945年8月15日に日本軍が降伏し、インドネシアは空白状態となった。

インドネシア共和国

 日本軍の降伏を受けてスカルノらが8月17日に独立を宣言した。翌日18日に発布された共和国憲法の第1条では「インドネシアは共和制をとる単一の国家」と定められ、スカルノ大統領、ハッタ副大統領が選出された。翌19日には地方行政区画として8州がおかれ、内閣制度の大要が決められた。9月5日にはスカルノ大統領が首相を兼務する内閣が発足した。

インドネシア共和国独立宣言

 1945年8月17日に、スカルノとハッタが署名してインドネシア共和国の独立宣言が発せられた。
「宣言 我々インドネシア民族はここにインドネシアの独立を宣言する。政権の委譲その他は迅速かつ正確に行われるべし。2605年8月17日 ジャカルタにおいて インドネシア民族の名において スカルノ、ハッタ」という簡単なものだった。この2605年とは日本の神武紀元での年代である。

Episode 独立宣言のドラマ

 日本軍政下で、スカルノやハッタは日本が将来の独立を容認した「小磯声明」(44年9月)に基づき、日本軍と協議の上で実現させようと考え、独立準備調査会を発足させていた。しかし、スカルニら急進派青年グループは自らの力で独立を勝ち取ろうとしてスカルノらの姿勢に不満を持っていた。8月15日、ジャカルタの一部の青年指導者が連合軍放送で日本軍の降伏を知った。急進派青年は16日、スカルノとハッタを拉致してレンガスデンロックの義勇軍中団に連行して独立宣言を迫り、条件付きながらそれを認めさせた。独立宣言文の作成はジャカルタの日本人海軍武官の家で、青年グループ、日本軍関係者立ち会いの下で作られた。独立宣言はジャカルタのスカルノ邸で、スカルノにより日本軍とは関係なく発布された。<『インドネシアの事典』同朋舎 p.291>

インドネシア独立戦争

 戦後処理には9月末にイギリス軍が駐屯したが、戦後の混乱から回復すると、オランダは植民地の復活を策してきた。オランダはインドネシア共和国が脆弱であることにつけこみ、各地に傀儡政権を樹立し、分断を図った。話し合いは決裂し1947年1月、オランダは警察行動と称して攻勢に出て、インドネシア共和国軍はオランダ軍に対する独立戦争を展開した。48年1月には一旦停戦したが12月には再び戦闘が開始された。49年まではインドネシア共和国の領土はジャワ島の一部とスマトラ島に限られていた。

インドネシア連邦共和国となる

 インドネシア独立戦争が激化すると、東南アジア情勢ののこれ以上の悪化を懸念したアメリカ(46年からインドシナ戦争が続いており、フィリピンではフクバラハップの抗米闘争が起こっていた)がオランダに撤退を要請、49年のハーグ協定でオランダはインドネシア連邦共和国への主権移譲に同意した。これによって17世紀から続いたオランダ領東インドは終わりを迎えた。

連邦共和国から共和国へ

 ハーグ協定で成立したインドネシア連邦共和国とは、ジャワとスマトラをに限定されたインドネシア共和国とオランダが後押しして樹立した地方政権の連合国家であり、真の統一と独立とはほど遠かったので、各地方政権の共和国への編入を進める交渉と戦いが続いた。その結果、1950年8月にインドネシア共和国への編入が終了し、ここに完全な独立と統一を実現した単一の国家としてインドネシア共和国が成立した。

インドネシア(5) スカルノの時代

1950年、インドネシアが連邦制から単一の共和政国家となる。独立の指導者スカルノは第三世界の指導者としてAA会議などを主導。60年代にはナサコム体制下で独裁色が強まる。その共産党容認姿勢に反発した軍が1965年にオクしたクーデタ(九・三〇事件)で失脚した。

 1949年のハーグ協定で成立したインドネシア連邦共和国は、インドネシア共和国とオランダの傀儡政権である周辺諸国の連合体であったが、翌年の1950年までに次々とインドネシア共和国に編入を遂げ、単一の「インドネシア共和国」となった。同年、憲法が改正され(50年憲法)、連邦制は解消され、大統領権限を制限して政党政治と議会制度を基本とする民主主義体制が規定された。この憲法により改めてスカルノが大統領、ハッタが副大統領に選出された。インドネシア共和国のスカルノ政権時代は次の2つの時期に分けられる。

民主主義体制期

 1950年~1959年 独立を獲得し、民主国家を実現したインドネシアは、スカルノの指導で国内改革を進めると共に、国際社会で積極的な発言を行うようになり、1955年の第1回アジア=アフリカ会議(AA会議)をバンドンで開催して成功させ、スカルノは第三世界のリーダーとして国際的な脚光を浴びることとなった。国内では議会制民主主義の定着がはかられたが、国民党、共産党の他に、民族主義政党、イスラームを奉じる政党などが乱立し、「貧困からの解放」という経済課題を達成することができず、一方でスマトラなどの分離主義の動きも出てきて安定しなかった。スカルノ政権は次第に民主的な姿勢を後退させ、独裁を志向するようになった。

ナサコム体制期(スカルノ独裁期)

 1959年~1965年 政情不安を打開するため、スカルノは1949年に、50年憲法を廃し、大統領権限がより強い45年憲法を復活させ「指導される民主主義」を掲げた。1963年には終身大統領に就任した。その体制を支えるものとして民族主義(国民党)、宗教(イスラーム教)、共産主義(共産党)の三者の協力体制であるナサコム(NASAKOM)を作り上げた。実質は、軍部と共産党のバランスをとりながら独裁的な政治を行うものであった。
国連からの脱退 スカルノは共産党の主張を取り入れて、反帝国主義の姿勢を鮮明にし、西イリアンのオランダからの解放とインドネシアへの編入を実現させ、イギリスの主導によるマラヤ連邦と北ボルネオ(サラワクとサバの2州)の併合によるマレーシア連邦結成には強く反対して、1965年、マレーシアが国連に加盟すると国連を脱退し、中華人民共和国などと別個な国際組織の結成を目ざした。

スカルノ体制の崩壊

 しかし、このような共産党勢力の台頭を容認するスカルノ政権に対し、軍部や大資本、アメリカなどが警戒心を強め、1965年の九・三〇事件を期に軍を背景としたスハルト将軍によるスカルノ追い落としが行われ、ついに68年に大統領を辞任する。

インドネシア(6) スハルトの開発独裁

1960年代後半からスハルト大統領は政権を独占し、開発独裁の政治を行う。外交ではベトナム戦争に対応して東南アジア諸国連合を結成。長期政権下で不正・腐敗が進行し、1997年に民主化運動が起こり、翌年退陣した。

 インドネシア共和国では、1959年からスカルノ大統領が「指導される民主主義」という理念を掲げ、政党政治と議会制を実質的に否定する独裁体制を敷いた。それを支えたナサコム体制のなかで共産党勢力が台頭すると、軍部・大資本・アメリカなどの危機感が強まり、ついに1965年の九・三〇事件を期にスカルノ権威は失墜し、軍を背景としたスハルト将軍が1968年に第2代大統領に就任、インドネシア共和国は大きく方向を転換した。スハルト政権下で、それまでの「多様性のなかの統一」というインドネシア建国の理念は、より国家統合を強めた「建国五原則」(パンチャシラ)が強調されるようになった。

スハルト体制の内政

 スハルトは「新秩序」と「開発」を掲げ、共産党勢力を非合法として一掃し、政権を支える政治基盤として官僚などを動員した翼賛政党ゴルカル(「職能グループ」の意味)を組織した。国内の反政府運動や分離運動を抑えるためには、強力な指導のもとに経済開発を進め、豊かな社会を実現することで不満を解消することが有効であるという考えから、開発優先の政策がとられ、その資本として積極的にアメリカや日本など外国資本が導入された。この開発独裁と言われる強権的な政治のもとで、反対派の言論は封じられた。この開発政策は表面的には成果を上げ、インドネシアの生産力は急速に向上した。特に1973年の石油ショックではアラブ諸国の石油に替わりインドネシアの石油輸出が急増し、大きな利益を得て、スハルトの開発独裁は強化された。しかし急速な工業化、開発は農村社会を破壊し、貧富の差を拡大させ、また大統領周辺に利権が収集したために腐敗が進行し、民主的な権利を奪われた民衆の中に次第に不満が鬱積していった。

スハルト体制の外交

 スカルノの第三世界・共産圏よりの外交姿勢から一転し、親米路線に転換した。まず1967年にベトナム戦争の深刻化に対応して東南アジア諸国連合の結成に動き、ベトナムの共産化阻止のためのにアメリカへの軍事協力を強めた。また、スカルノがマレーシア連邦を否認したのに対し、それを承認し、国際連合に復帰した。反面、中華人民共和国とは国交を断絶した(スハルト失脚後の1990年に国交回復)。1975年にはポルトガルの政変に乗じて独立宣言をした東ティモールを武力併合した。 → インドネシア(3)現代

インドネシア(7) インドネシア共和国の現代

1998年、スハルト大統領が退陣し、開発独裁の時代が終わり、民主化が始まる。ASEANの中心国家として、その広大な国土、資源が重視されている。

国土と人口

 インドネシアは東南アジアの赤道に沿って広がる多くの島々からなる国家。面積は約190万平方km、人口2億4千万人を有する。面積では日本の約5倍。人口で約2倍。首都はジャカルタ。主な島は、ボルネオ島スマトラ島、スラウェシ島、ジャワ島で全部で1万7千以上の島々からなる。
インドネシア共和国国旗 赤と白は男性と女性、天と地、太陽と月を表し、マジャパヒト王国時代から用いられている標識であるという。

民族と宗教

 民族はマレー人(マライ=ポリネシア語族)であるが、地域的、文化的な違いから、ジャワ人、スンダ人、ミナンカバウ人、アチェ人、など多くの「エスニックグループ」に分かれている。言語においても同様であるが、現在は「多様性のなかの統一」が叫ばれ、「インドネシア人」意識と共通語として「インドネシア語」(マレー語に近い)の普及が進んでいる。宗教は88%がイスラーム教徒。しかし、地域によってはキリスト教(カトリックとプロテスタント)、ヒンドゥー教、仏教が多いところもある。 → 建国五原則(パンチャシラ)

現代のインドネシア

 1998年に前年のアジア通貨危機をきっかけにスハルト独裁政権が倒れてから民主化が進み、2004年には初めて国民による大統領直接選挙が実現した(それまでは選挙人選挙)。スハルト以後の大統領は次の通り。
 ハビビ 98~99年 スハルトの副大統領から昇格。政党の自由化を行う。1999年に総選挙。
 ワヒド 99~01年 イスラーム教政党ナフダトゥール=ウラマー党首。総選挙で勝利し、大統領就任。
 メガワティ 01~04年 スカルノ前大統領の娘。ワヒド政権が不信任され、大統領就任。02年には東ティモールの独立が実現した。一族への利益供与の疑惑が生じ、04年大統領選挙で敗れる。
 ユドヨノ 04~ 初の直接大統領選挙で当選。軍人出身。2004年12月26日、スマトラ沖大地震(マグニチュード9.3)と大津波で、大きな被害を被った。05年にはアチェ紛争の和平が実現したが、インドネシア共和国内には西イリアン(ニューギニア島西部)の分離独立運動などを抱えている。また2006年5月にはジャワ島中部地震、ついで7月にはジャワ島西部地震と自然災害が続いている。
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ノートの参照
第13章2節 ウ.東南アジアの植民地化
第16章1節 ウ.東アジア・東南アジアの解放と分断
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マラッカ物語 表紙
鶴見良行
『マラッカ物語』
1981 時事通信社