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塩・鉄・酒の専売制

漢の武帝があいつぐ外征のために苦しくなった財政を補うために、塩・鉄・酒を国家の専売とした政策。

 漢の武帝は、匈奴を制圧するために、外征を繰り返した。その戦費、糧秣の輸送、さらに戦士への恩賞などが巨額になり、国家財政を圧迫した。そのために、政府は恒常的な財政政策をたてて、財政を再建する必要に迫られた。武帝の元狩4年(前119年)のの専売制による財政収入の増加、均輸法平準法による物価安定策など一連の財政改革を行った。また、それらの前提となる貨幣の安定的流通のために五銖銭を発行した。専売制には後に酒が加えられた。これらの財政政策で、最も重要であり、効果を上げたのが塩・鉄・酒の専売制度であった。<以下、西島定生『秦漢帝国』1997 講談社学術文庫版 p.242-,301 などによる> → 宋代の茶の専売制

塩・鉄・酒

 漢の武帝の前119年、衛青と霍去病による匈奴平定作戦が展開されている最中に、武帝はまず塩と鉄の専売制に踏み切った。この策を建言し、実施にあった官吏は均輸・平準法と同じく桑弘羊(そうくよう)という人物だった。専売制では塩と鉄が特に重要で、あわせて「塩鉄」という。人間の生活と生産には欠くことができない塩と鉄を、その生産と流通を国家が管理し、利益を国家の収益とするという、強権的な制度であった。ただ、塩と鉄、さらに後に専売制とされる酒の場合は事情は異なっていた。
 塩は人間の生存のために欠くことのできない食品であるが、生産地は海水から製塩する海岸地方が主で、そのほか塩水湖から製塩する山西省運城市の解池、地下塩水から製塩する四川省の塩井などに限られていた。したがってその地の製塩業者とその販売業者とが巨利を占めていた。塩の専売制度では、従来製塩業が行われた地方に、36カ所の塩官という官庁を設置し、市の生産を管理させたが、その生産自体は従来の民間製塩業者が担当し、政府はこれに煮塩の器具を与えたにすぎなかった。しかし生産された塩はすべて塩官が買い上げ、これを民間に販売し、私販はいっさい許されなかった。つまり、塩の専売制度は、生産業者が生産した塩を政府が独占的に買い取り、それを政府の手で販売し、その収益を国家財政に繰り入れるものであった。
 中国において、鉄は春秋時代中期に始まり、戦国時代に鉄製農具が普及した。農民にとって鉄器は生産に欠かせなかったので、製鉄業者とその販売業者はやはり巨利を得ていた。そこで漢の政府は、鉄鉱を産出する地方に、合計50カ所の鉄官という官庁を設置し、これを大農令(大農という役所の長官)に所属させ、そこで鉄器を鋳造して、それを販売した。鉄器の鋳造に必要な労働力は人民に課せられた徭役労働と労働刑を科せられた囚人、および製鉄を専門とする工匠などがあたった。鉄鉱を産出しない地方には地方郡県の所管で小鉄官がおかれ、廃鉄の回収とその再鋳造を行った。農民は専売制度以外の鉄製農具を購入することはできなかった。つまり、鉄の専売制度とは、その生産と販売とをすべて政府の手で行い、その収益を国家財政に繰り入れるものであった。
 酒の専売はその後、武帝の前98年に制定された榷酤(かくこ)法によって専売とされた。武帝の死(前87)後、塩鉄と酒の専売制の存続をめぐって政府内で大議論が持ち上がった。もともと塩や鉄で利益を上げていた大商人は一貫して専売制に反対していたからである。その論争は『塩鉄論』として記録が残されている。その結果、まず酒の専売制(榷酤法)の廃止が決まり、前81年に酒の自由売買が認められた。

『塩鉄論』

 桑弘羊らの政策は、国家が経済に関与することであるので、商人たちには反対の意見も多く、武帝の死後に論争が起こった。両者が激しく議論したことを記録した書物が『塩鉄論』である。この議論の結果、塩と鉄の専売制は継続されたが、酒の専売は廃止となった。
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書籍案内

西嶋定生
『秦漢帝国』
1997 講談社学術文庫

曽我部静雄訳注
『塩鉄論』
1934 岩波文庫