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人類の食生活を支える調味料。塩の生産と消費は人類の歴史と関わりが深く、塩税や塩の専売制が国家の財政を支えた例も多い。

 自然界に大量に存在する塩であるが、海水から比較的容易に得られたので海岸での製塩が広く行われた。内陸部でもかつて地質時代に海だった地域には、地表や地下から岩塩を採集できる。そのため、アジアやヨーロッパ、アフリカの大陸の内陸部でも塩が産出し、その地方は交易が発達した。

西洋の塩

 一般に、塩の製法はメソポタミアに始まると考えられており、それがエジプト、ギリシア、ローマへと広がっていった。エジプトではミイラを作る上で塩が不可欠であった。ギリシアでは塩は「共有されるべきもの」という意味から「友情・歓待」のシンボルとされ、その味が変わらないことから「約束」のシンボルとも見なされた。また、ギリシアでは生け贄の動物の頭に清めの塩がかけられた。ギリシアではタコや魚が食べられているのでその保存のための塩も不可欠であった。ローマでは兵士が塩を買うための特別な手当として銀貨を与える習慣があったことから、塩はサラリウムと呼ばれ、それが英語のサラリー salary の語源になったといわれている。<宮崎正勝『モノの世界史』2002 原書房 p.22>
 ローマが進出したドナウ川中流域の現在のオーストリアのザルツブルク付近は岩塩の産地としてローマにとって重要であった。
 中世ヨーロッパでは修道院が塩の取引を行い、北海沿岸では大量の「塩漬けニシン」が作られ、重要な商品となっていた。絶対王政の時代になると、生活必需品である塩に課税はガベル(もとは物品税の意味だったが、塩税を意味するようになった)といわれ、フランス財政を支えるようになった。塩税は庶民の重い負担となっていたので、フランス革命が起きると、1890年に廃止された。しかし宣布が不足したナポレオンは1805年に塩税を復活、それは1945年まで続いた。

世界遺産 フランスの王立製塩所跡

 フランス東部のフランシュ=コンテ地方のサランレバン(Salins-les-Bains)は塩分を含む地下水を汲み上げ、熱して塩を取る製塩業が盛んであったが、燃料の木材が枯渇するという事態を招いた。そこでブルボン朝政府は遠く離れたアルケスナン(arc-et-senans)に塩水を導水路で結ぶ製塩所を建設した。王立製塩所は操業を開始したがフランス革命で王政が倒されたため次第に衰微してしまった。このアルケスナンの王立製塩所跡は近代の製塩所として世界遺産に登録されている(1982年)。 → アルケスナン王立製塩所公式ホームページ

アフリカの塩

 アフリカではサハラで岩塩が産出し、イスラーム商人(ムスリム商人)の手でアフリカ内陸に運ばれ、サハラ南方のガーナ王国で産出すると盛んに交易されていた。

東洋の塩

 中国でも海岸部と内陸部で塩が生産されたが、塩田ができる海岸(江淮地方)は少なかったので、内陸部で塩分を含み地下水を汲み上げる塩井(四川省)や、塩水のたまった塩池(山西省)で塩を得ることが多かった。漢王朝は貴重な海岸部の塩田を国が管理する専売制を採用し、鉄・酒の専売と共に国家の重要な財源とした。唐王朝では塩の専売制が整備され、塩の密売は厳しく禁止されるようになったが、それに不満を持つ塩の密売人の黄巣が起こした黄巣の乱が唐の滅亡へとつながることとなった。
 元の時代にも塩は専売制のもとにおかれ、塩の引換券である「塩引」は、小額紙幣である交鈔を補う高額紙幣として取引を媒介した。
 塩をめぐる世界史上の出来事としては、1930年にガンディーが第二次の非暴力・不服従運動として、インド人による製塩の自由化をイギリスに要求して始めた塩の行進がある。塩はいつの時代も人間を動かす、つまり歴史を動かす力があったことが判る。
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ノートの参照
5章3節 ウ.アフリカのイスラーム化