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鉄器/鉄製農具

西アジアの小アジアで始まったとされる金属器。青銅器に代わり、農具・武器として使用され、生産力を高め、統一国家出現の要因となった。

 鉄器は、金属器の中で、人類が青銅器に次いで使用し始めたものであるが、製鉄技術がどこで始まったかについては厳密には不明である。遺跡の上では前3000年紀前半に西アジアに存在していたことがわかっている。文献上確認される最古の鉄器使用民族は小アジア(アナトリア)のヒッタイトである。前1400年頃、メソポタミアにひろがり、さらにカフカスを経て北方の遊牧民スキタイに伝わり、彼らの手でユーラシア大陸の東西に鉄器文化が広がったものと思われる。
 ヒッタイトはエジプトと激しく争う打ちに衰退し、前1200年頃、民族系統不明の海の民の侵攻を受けて滅亡した。それによってヒッタイトが独占していた鉄器生産技術は西アジア、東地中海に広がったと考えられている。
ギリシアでの鉄器文化への移行  古代ギリシアでは、かつては前12世紀頃、北方から鉄器を使用する民族が南下して、エーゲ文明の青銅器文明を破壊し、征服した、とされているが、最近は否定的な見方もあり、ギリシアへの鉄器文化の波及については定かではない。現在では海の民の侵攻との関連があったと考えられており、一般には前8世紀までの暗黒時代に、ギリシアは鉄器文化に移行し、同時にポリス社会に移行した、とされる。
ヨーロッパの鉄器文化 イタリア半島では前11世紀ごろ、鉄器文化を持ったイタリア人が南下し、その中のラテン人が都市国家を形成してローマに発展した。またローマの先進文化の周縁にあった他のヨーロッパ地域では、ガリア(現在のフランス)でケルト人が独自の鉄器文化であるラ=テーヌ文化を持っていた。ヨーロッパ北東部に住んでいたゲルマン人もケルト人と接触しながら鉄器文化を受容していった。ケルト人は前1世紀までにローマに征服された。
インドの鉄器文化 インドではアーリヤ人ガンジス川流域への移住が行われた前1000年頃から始まる後期ヴェーダ時代に、青銅器に代わって鉄器が用いられるようになり、また大麦から小麦や稲作中心の農業に変化してきた。鉄器は農耕具とともに武具としても使われた。そのような社会の変化の中で、ヴェーダ信仰も儀式や祭祀を重視する傾向が強まり、それにともなって司祭であるバラモンが特権的な地位を占めるようになってきた。

中国の鉄器文化

 古代中国では春秋時代中期以降に製鉄が始まり、戦国時代に普及した。中国の製鉄は、春秋時代に始まったが注目されるのはそれが「鋳造」であったことである。西アジアで最初に現れた鉄器は鍛鉄(原鉄を叩いて形にする)であったが、中国の鉄器が鋳造であることは、それが西方から伝わったものではなく、中国独自に開発されたと考えられるからである。鋳造を可能にするには高い温度を出すための送風装置、つまり鞴(ふいご)が必要であり、中国では早くそれが発明された。また、鋳鉄は鋳型に入れてつくるため形は自由に作れるが、鍛鉄に比べてもろいため、中国の鉄は農耕具として利用され、武器は依然として青銅器が用いられた。「だから、鉄は悪金とよばれ、武器には青銅が使用され、それは美金とよばれていた。」<貝塚茂樹・伊藤道治『古代中国』2000 講談社学術文庫 p.367>
戦国時代の鉄器の普及  鉄製の農具は、それまでの磨製石器に代わって普及し鍬や鎌が農耕だけでなく、牛耕農法を可能にし、開墾、水利土木工事にも使われ、農業生産力を飛躍的に増大させた。戦国時代にになると鍛造の技術も開発され、武器にも利用されるようになった。農業生産力の向上は、手工業をも発展させ、さらに貨幣経済へと社会を導いていく。戦国時代には各国で青銅貨幣が鋳造されるようになる。
 鉄製農具は農民にとって欠くことのできないものとなったので、鉄鉱の産地の鉄器製造業者とその販売業者が大きな富を蓄えるようになった。漢の武帝は匈奴に対する外征によって危機に瀕した財政を再建するため、塩・鉄・酒の専売制に踏み切った。それによって鉄は政府が生産と販売を独占し、その収益を国家財政に充てるという措置が執られた。
 → 産業革命以降の鉄鉱石/鉄工業