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南越

秦の滅亡に伴い、前203年に中国の南部からベトナム北部にかけて自立した国。前112年には漢の武帝に征服された。

 中国大陸の長江の下流域の浙江地方には、春秋時代に越王勾践で知られる越という国があり、一時は北に接する呉と争い、有力であったが、前334年にに滅ぼされた。この地域の人々は越人とも言われ、文身(入れ墨)と断髪という独特の習慣をもっており、後の福建省から広東省、北ベトナム一帯に広がっており、中国では総称して「百越」などとも呼ばれた。そのうち、福建省一帯の人々を閩越(びんえつ)、嶺南地方の人々を南越ともいった。

秦の始皇帝の軍事行動

 北方では匈奴制圧にも力を入れた秦の始皇帝は、約30万の軍隊を対匈奴戦争に振り向けたが、並行して中国南部の南越に対しても軍事行動を起こした。前214年には、50万もの軍隊を嶺南(今の広東・広西地方)に送り、対百越戦争を行って、広東地方に南海郡、広西地方に桂林郡、さらにベトナム北部に象郡の3郡を置いた。
(引用)実際に百越の地に向かったのは正規の軍隊というよりは駆り出された移住武装集団というものであった。高温多湿の風土に北方の秦の人びとはとまどった。だれもが進んで参加したわけではなく、本籍を離れ行き所のない逃亡者、極貧のために婿入りして身売り同然の男子、そして細々と店舗を出すような小商いたちが、嶺南の酷暑の地に入り、桂林・象・南海の三郡が設置されて、しだいにそこの住民となっていった。じつは、越はひとつにまとまった国家ではない。山間部と河川沿岸の平地に点在して居住する人々を百越と総称した。この場合も、国家間の戦争というより、50万もの人間を嶺南の地に開拓移住させたといった方がよい。<鶴間和幸『人間・始皇帝』2015 岩波新書 p.143>
始皇帝の運河建設 始皇帝は、対百越戦争を遂行するために運河を建設した。長江の支流である湘水を遡り、珠江の支流である離水につなげるもので、その間の分水嶺はわずか2kmしか離れいないが高度差は数メートルあるので、船が航行できるようにするには、水位を調節する堰を中間に設けた。この嶺南地方と直結する運河は霊渠と呼ばれ、自然の河川を含めて全長34kmに及び、現存している。
 この運河は、対百越戦争で使われただけでなく、それまで北方では得ることが難しかった南海産の犀角・象牙・玳瑁(タイマイ)・翡翠(ヒスイ)・真珠・珊瑚などの物産をもたらすことになった。<鶴間和幸『同上書』 p.145-147> → 中国の大運河

南越国の自立

 秦の設置した3郡で、秦末の混乱に乗じて、越人が前203年に自立し、「南越国」を建てた。越人を指導した趙佗(ちょうだ)は、出身は黄河下流の秦人で南海郡の龍川県令となった人物だった。彼は、始皇帝が死去し、二世皇帝に対する反乱が起こって秦が滅亡したことを知って、南越を建国し、武王(国内では武帝と自称)となった。都は番禹(ばんう、現在の広州市)に置かれた。
 南越国は現在の中国南部、広東・広西両省からベトナム北部の地域にかけての越人を、秦人が支配する征服王朝だった。漢は高祖以来、南越王を封じ、その臣下として支配した(冊封体制)。

参考 南越王墓の発掘

 秦末に自立した趙陀が南越王を自称したことを、高祖も黙認せざるを得なかった。漢の文帝は使者を出して趙陀を説得し、趙陀も臣従を表明したので改めて彼を南越王に封じた。番禺(広東省広州市)を都とした南越は武帝に滅ぼされるまで華南を支配し続けるが、史書には、南越王は陰では帝(皇帝)を僭称し、趙陀は自ら武帝と称した、とされている。
(引用)1983年、広州市の中心街にある象崗山で、一つの古墳が発見された。ビル建設の途中のことである。発掘の結果、これが第二代の南越王趙眜(べつ)の王墓であることが判明した。盗掘をまぬがれていたので、地下の石室からは、玉の板を朱色の絹糸で綴り合わせて遺骸を包んだ「玉衣」等々、数々の貴重な文物が出土した。これらの埋葬品のうち、もっとも古代史家を驚かせたのは「文帝行璽」と刻んだ金印であった。史書にある「帝」の僭称は、まさに実物資料によって裏付けられただけである。<尾形勇他『中華文明の誕生』1998 世界の歴史2 中央公論社 p.309>

武帝の南越征服と漢の支配

 前112年、漢の武帝は南越の内紛に乗じて討伐に着手、10万の大軍で都(現在の広州市)を征服して南越は滅亡した。これによって、この広東・広西両省からベトナム北部に及ぶ広大な地域が漢の直接支配下に入り、九つの郡が置かれることとなった(南海九郡という))。その中のベトナム北部には交趾、九真、日南の三郡がおかれ、漢人の太守が派遣された。後漢時代にこの地で漢人の支配に対するベトナム人の反乱である徴姉妹の反乱が起こったが、後漢は苦戦の末に鎮圧し、中国によるベトナム支配は、その後も1009年の大越国の独立まで続く。
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ノートの参照
2章3節 キ.漢代の政治