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八王の乱

3世紀末に始まる晋の王族司馬氏の内乱。五胡台頭の契機となる。

290※~306年に起こった西晋の内乱。皇帝の司馬氏一族の諸王の権力争いであったが、対立しあう諸王が軍事力として匈奴など五胡と言われる北方民族の力を利用したことから、北方民族が中央権力を獲得するきっかけとなったことが重要な意味を持つ内乱であった。290年、西晋の武帝(司馬炎)が没し、子の恵帝が即位したが暗愚で精神障害があったため、皇后の賈后とその外戚が実権を握った。300年、諸王の一人趙王が賈后を殺害し、一時晋の帝位を奪うと、301年に一族の諸王も各地で兵を挙げて大混乱に陥った。このなかの有力な八人の司馬氏一族の王たちの争いを八王の乱という。武帝の時、皇帝直属軍は縮小され、多くの兵士が帰農していたので、政府や八王はそれぞれ北方異民族を兵力として利用しようとした。306年に恵帝の弟の懐帝が即位し一応の収束をい見たが、その懐帝は311年に匈奴の劉淵によって洛陽を占領されるという永嘉の乱で、その捕虜とされてしまう。
(引用)「諸王の間にはまったく意思統一が無く、部下にあやつられながら、個々バラバラに、それぞれの利害を追求する。闘争は闘争を生み、その間に、互いに北方異民族の武力を導入して自己の戦闘能力を高めようとする。収拾のつかない、このいわゆる「八王の乱」は、さいしょ諸王や漢人の地方勢力に使われていた北方異民族が自己の武力の強さを自覚する契機となり、ついに、華北全域を異民族の跳梁にゆだねて、司馬氏の諸王が滅びさる、という結果をもたらした。」<川勝義雄『魏晋南北朝』講談社学術文庫版 p.169-170>

※八王の乱の開始年代

 教科書によっては、武帝の没した260年ではなく、趙王が一時帝位を奪った300年、あるいは全国的な内乱に転換した301年を八王の乱の開始としているものもある。いずれにせよ、長期にわたる内乱が北方民族の台頭をもたらしたことが重要。
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ノートの参照
3章2節 イ.分裂の時代
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川勝義雄『魏晋南北朝』
講談社学術文庫版