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劉淵

八王の乱に乗じて自立し漢(前趙)を建国した匈奴系の部将。

分裂した匈奴のうち、中国北部の山西省付近に残った南匈奴の単于を名乗る。匈奴の後裔であったからか、身長1.9mあったという。はじめ西晋の八王の一人成都王穎(えい)の部将としてそれに従っていたが、八王の乱が起こると、それまで不遇であった匈奴の再起のチャンスと考えて、5万の匈奴部隊を率いて304年10月、漢王の地位について独立を宣言した。国号をとしたのは、漢王朝の姻戚として現在の晋王朝を倒し、漢帝国の再興を標榜したためであり、中央政府に漢王朝風の百官を定めた。この304年は、四川地方で氐族の李氏が成国を建てたのとともに、五胡十六国時代の始まりを告げる出来事であった。劉淵はその後、山西省南部を勢力範囲に収めて、308年に平陽を都にして帝位についた(漢の高祖)。同じく成都王配下であった有力であった羯族を率いた石勒も劉淵に従い、漢人で降服するものも増えたが、310年に業半ばにして病死した。その後、匈奴の漢は311年に晋の都洛陽を攻め落とし、さらに316年に長安にいた最後の皇帝を捕らえて、晋を滅ぼした(永嘉の乱)。<川勝義雄『魏晋南北朝』1974 講談社学芸文庫版 p.38,170,310>
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第3章1節 イ.分裂の時代