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慧遠

中国仏教の浄土教の祖とされる僧侶。東晋の4世紀末、廬山にねんぶづの道場を開き、後に白蓮教と言われる教団を作り、中国での仏教の民衆普及をもたらした。

 4世紀後半~5世紀始め、東晋の僧で中国における浄土教の始祖とされる。道安の弟子として仏教経典や戒律を学び、戦乱を避けて江南の廬山に入り、東林寺を開いて念仏の道場とした。また長安の鳩摩羅什とも手紙で往来して親交を結んだ。 → 中国仏教
 慧遠は修行の方法として阿弥陀仏像の前で念仏をとなえる方法を始めたが、堂前に白蓮が植えてあったので、後にその結社は白蓮社と言われるようになり、浄土教(浄土宗)の始祖とされている。またその宗派は白蓮教と言われるようになり、わかりやすい教えが大衆的な支持を受けて、時にはその力を反権力に向けることもあり、後の元末には紅巾の乱を起こし、清末には白蓮教徒の乱を起こしている。戦後の中国では、1959年に中国共産党の廬山会議が開催されている。

Episode 慧遠と陶淵明の交わり

 慧遠は廬山に居を定め、東林寺の麓の虎渓を境として山を出ないことを誓い、三〇年間それを守った。ある日、田園詩人として有名な陶淵明と道教の大家陸静修が慧遠を訪ね、三人で「道」について語り合った。二人が帰るのを送りながら話に夢中になり、虎渓を越えてしまった。三人はそれに気づき、大笑いしたという。この話は「虎渓三笑」という画題にされている。陶淵明と慧遠に親交があったというのは作り話らしいが、二人は同時代の人で、陶淵明は廬山の南方の田園で酒と菊を愛し、農耕のかたわら詩を詠んでいた。<塚本善隆『世界の歴史4 唐とインド』中央公論社 1961 p.80-84>
 一方で、慧遠が謝霊運の白蓮社への参加を断った話が、吉田兼好の『徒然草』第108段に見えている。
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