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東晋

317年~420年、江南の建康を都とした漢人の王朝。

 西晋が匈奴の侵入を受けて滅んだ後、司馬氏の一族の司馬睿が江南で317年に晋を再建した。それを東晋という。420年までの約100年間、江南地方を支配し、華北の北方民族(胡人)の文化に対して漢民族の文化を維持し、発展させた。呉の建業を、建康と改称して都とした。建康は以後、南朝の都として繁栄する、現在の南京である。383年、華北の前秦(氐が建国した王朝)との淝水(ひすい)の戦いに勝ち、その南進を食い止め、以後は淮河を境界とした南北で対抗するという形勢が定まった。
 淝水の戦いにおける東晋の勝利は、その軍事力を支えていた北辺守備隊である北府軍の勢力を増大させることになった。しかし、東晋の宮中は気風が紊乱し、荒廃が進んでいた。396年には孝武帝が変死し、安帝がたったが、統治能力に乏しく、北府軍を背景に下武人が政治に介入するようになった。東晋の宮廷で画家の顧愷之が、『女史箴図』を描いたのはこのころのことであった。

Episode 中国版カルト教団の反乱

 399年、建康の東晋政府は、長江下流デルタの小作人を兵士に徴発しようとした。最も生産力の高いこの地域が騒然とするなかで、孫恩の乱が起こった。孫恩は道教系の五斗米道の信者でみずから「長生人」、つまり永遠に不死なるもの、と名のり、教団を率いて反乱を起こした。決戦を覚悟した孫恩は、信者たちにの連れている赤ん坊が足手まといになるので、これを水中に投げ込ませた。かれらには入水して永生者になるという「水仙」の信仰があった。狂信の母たちは「おめでとう。おまえはさきに天国に上るのよ。わたしもあとからおまえのところに行くよ」といいながら、子どもを水の中に投げ込んだのであった。孫恩集団は狂宴を催しながら急送に民衆の間に広がり、反乱は首都建康をも脅かす勢いになった。政府は鎮圧を北府軍に命じると、その指揮官となった劉裕は、首都の危機を救い、孫恩集団を追撃して、402年に孫恩は海に身を投じたのでいったん鎮圧された。その後も残党は盧循という者を教主として勢いを盛り返し、水軍を使って再び首都に迫った。しかし、劉裕はここでも首都の危機を救い、盧循はベトナムに逃れて、411年に死んだ。陶淵明が『桃花源記』が描いたのはこの頃のことだった。

東晋の滅亡

 403年には、北府軍に対抗していた西府軍の桓玄が東晋の安帝から禅譲されるという形をとって帝位につき、国号を楚とした。しかしわずか三ヶ月後に劉裕がクーデターを起こし、桓玄を首都から追放、安帝を再び帝位に就けて復活させた。しかし、実権は劉裕に移ったことは明らかだった。劉裕はなおも20年近く、東晋に仕える形をとった上で、ようやく 420年に東晋最後の皇帝恭帝から禅譲を受ける方で帝位についてを建国した。

貴族文化の隆盛

 東晋時代は詩人の陶淵明、画家の顧愷之、書家の王羲之などが活躍し、六朝文化が大いに栄えた。また法顕グプタ朝時代のインドに行き、戒律を学んで帰り、仏教も盛んであった。
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ノートの参照
3章2節 イ.分裂の時代
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川勝義雄『魏晋南北朝』
講談社学術文庫版