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陶潜/陶淵明

東晋から宋にかけての人で、六朝文化を代表する詩人。「帰去来の辞」など、自然を詠い田園詩人といわれる。

 東晋から南朝のの時代にかけて活躍した、六朝文化を代表する詩人。中国文学史の中でひときわ光る田園詩人、隠遁詩人である。没落した貴族の家に生まれ、41歳の時に官を辞し、貧しさにめげずに晴耕雨読の生活を送り、詩作をものした。「帰りなんいざ、田園まさに荒れなんとす、なんそ帰らざる・・・」と歌った長編詩「帰去来の辞」(406年)が最も有名でる。またその著作『桃花源記』は理想郷を描いた作品として名高い。

時代背景 東晋から宋へ

 陶淵明が隠遁してから15年後の420年、東晋の軍人であった劉裕が東晋を滅ぼして即位し、宋王朝(劉宋)を立てた。陶淵明の曾祖父は東晋の功臣であり、陶淵明自身もかつては劉裕と同僚であったので、劉裕が東晋を滅ぼしたことを許せなかった。陶淵明は自分の著作にけして劉宋の年号を用いなかった。
このような戦乱の時代、知識人の中には道教思想や仏教が広がり、現実逃避の傾向が強まった。陶淵明と同時代に浄土教の祖と言われる慧遠がおり、両者が談笑した言い伝えから“虎渓三笑”という逸話がある。

Episode 酒を愛した詩人

 次のような紹介が分かりやすい。
(引用)「陶淵明は・・・少年のころから読書と農耕に明け暮れる日々をすごした。太元18年(393)、29歳で生活のために地方官の職について以来、出仕と辞任を繰り返す。しかし、義熙元年(405)、41歳の時に、「五斗米の為に腰を折り郷里の小人に向かう能わず(たかが五斗の扶持米のために、田舎の小役人にへいこらできるものか)」と、彭沢県(江西省)の知事を辞任したのを最後に、故郷の柴桑県(江西省九江市)に帰り、死に至るまで二十年あまり、文字どおり晴耕雨読、貧しさと戦いながら、悠然と隠遁生活をつづけた。米酒を愛し、約百三十編の現存する彼の詩のうち、半数は酒を歌っている。・・・・隠遁したとはいえ、陶淵明には妻と五人の息子から使用人まで、大人数の扶養家族があった。彼は息子はそろってできが悪いとか、食べるものがないとか、愚痴をこぼしながら、貧乏とひきかえに、暇さえあれば読書や詩作にふけるなど、何物にも拘束されない時間と精神の自由を獲得した。現在のこっている陶淵明の詩は約百三十首。その半数には酒のことが歌われている。まさに“篇篇酒あり”である。」<井波律子『奇人と異才の中国史』岩波新書 2005 p.58>

Episode 「田園詩人」はいたのか?

 魯迅は、1927年に広州で行った講演「魏晋の気風および文章と薬および酒の関係」のなかで、陶潜に触れ、こんな風に述べている。
(引用)東晋時代になりますと、気風が変わってきました。社会思潮はごくおだやかになり、いろいろの点に仏教の思想がまじってきました。さらに進んで晋末になりますと、もう戦争だろうが反乱だろうが、ちっともめずらしくなくなって、そこで文章もいっそう平和になりました。その平和な文章を代表する人に、陶潜がいます。気ままに酒を飲んだり、乞食をしたり、興が乗ると議論をしたり、文章を書いたりして、何の不平不満もない、というのが陶潜の特徴であります。ですから、いまでは「田園詩人」とも呼ばれますように、非常に平和な田園詩人でありました。・・・・しかし、『陶集』のなかの「述酒」という一編は、当時の政治のことが書かれております。してみると、かれも世間のことを忘れていたのではなく、冷淡だったわけでもないのです。・・・
 私の考えでは、たとい昔の人でも、詩文がまったく政治を超越した、いわゆる「田園詩人」「山林詩人」は、いないと思います。現世をまったく超越した人もおりません。もし超越してしまえば、詩や文をつくるはずがありません。詩や文もまた人間の営みでありまして、詩があるからには、まだ世間のことを忘れられない証拠であります。・・・・陶潜は、俗世間を超越することはできなかったのです。いや超越どころか、政治に関心をもってさえいました。また「死」を忘れることもできませんでした。かれの詩や文には、しょっちゅう死のことがあつかわれております。もしちがった角度から研究すれば、旧説とはちがう人物像になるかも知れません。 <魯迅/竹内好訳『魯迅評論集』1981 岩波文庫 p.188-190>
 魯迅は国民党の監視のなかでこの講演を行った。陶潜を「田園詩人」とだけ見るべきではない、文学は世間や政治から超越したものでありえない、という発言は魯迅が陶潜をみずからに重ねて言っているのに違いない。
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ノートの参照
第3章1節 エ.魏晋南北朝の文化
書籍案内

井波律子
『奇人と異才の中国史』
岩波新書 2005

魯迅/竹内好訳
『魯迅評論集』
1981 岩波文庫