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扶余

朝鮮の三国時代、百済の都。本来は中国東北地方にいたツングース系民族とその国のことで高句麗のもととなった。都市名としての扶余は538年に百済の都となった泗沘城のこと。

 プヨ。夫余、扶餘とも表記。百済の最後の都。現在は、扶余といえば韓国の忠清南道にある小都市で、三国時代の百済の都があったところとして世界遺産(百済歴史遺跡地区)に指定されている。ただし、本来の扶余は、朝鮮北部から中国東北地方で活動していたツングース系の民族名であり、その国号であった。

民族名・国名としての扶余

 民族名、国名としての扶余(扶餘)は高句麗と同じくツングース系の貊人(はくじん)が、前2世紀ごろ中国東北部の松花江中流に建国したもので、1~3世紀ごろには鮮卑および高句麗に対抗する勢力となった。494年に同じツングース系の勿吉(モッキツ)に滅ぼされた(勿吉は6世紀半ばに高句麗に滅ぼされる)。百済はその扶余の後裔と称しており、最後の都の名も扶余とした。

百済の都としての扶余

 百済の都は初めは漢江(ハンガン。現在のソウルの中心部を流れる)の流域の慰礼城であったが、371年に漢城(後の朝鮮王朝の漢陽、現在のソウル)に移り、その後高句麗や新羅との抗争の中で、たびたび遷都している。475年には南の錦江中流の熊津(ユウシン、現在の公州)、さらに538年に聖王(日本書紀で日本に仏教を伝えたとされる聖明王)の時、下流の泗沘(サビ、しび)に移された。その地が現在は扶余と言われており、錦江を下って白村江にでることができ、日本との交通に便であった。

Episode 百済滅亡の時の悲劇

 扶余の町の西北、泗沘城跡である扶蘇山があり、その端は絶壁になっていて白馬江といわれる絶景となっている。ここでは660年に百済が唐・新羅の連合軍に攻撃されて滅亡したとき焼け落ち、多くの犠牲が出た。現在も次のような話が伝えられている。 (引用)戦いのかげで多くの女性も散っていった。扶蘇山の王宮に仕えていた三千の官女は、王宮が焼かれたとき、敵にとらえられて辱めをうけたくないと、西端の絶壁から白馬江に身を投じて、百済とともに散っていった。その絶壁をその後の人が「落花巖」と名づけた。官女を花にたとえたのである。なぜか、滅んだ百済にはそのような悲しくも華麗なイメージが漂う。強大国のイメージに乏しいからであろうか。<金両基『物語韓国の歴史』1989 中公新書 p.174>

世界遺産 百済歴史地区

 2015年、扶余を含む百済王朝後期の3つの古都の遺跡が、世界遺産に登録された。百済の475年から660年までの王陵、城、城壁、寺院跡など8つの遺跡からなる。百済は、早くから中国の都市文明や仏教、儒教などの文化を取り入れ、また隣国日本にも大きな影響を与えた。百済歴史地区の多くの歴史、文化遺産は東アジアにとって重要な意味がある。 → ユネスコ世界遺産センター 百済歴史地区
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書籍案内

金両基
『物語韓国の歴史』
1989 中公新書