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扶余

朝鮮の三国時代、百済の都。本来は中国東北地方にいたツングース系民族とその国のこと。

プヨ。夫余、扶餘とも表記。百済の最後の都。百済の都は初めは漢江の流域の慰礼城であったが、371年に漢城(後の朝鮮王朝の漢陽、現在のソウル)に移り、その後高句麗や新羅との抗争の中で、たびたび遷都している。475年には南の錦江中流の熊津(ユウシン、現在の公州)、さらに538年に聖王(日本書紀で日本に仏教を伝えたとされる聖明王)の時、下流の泗沘(サビ、しび)に移された。その地が現在は扶余と言われており、錦江を下って白村江にでることができ、日本との交通に便であった。

民族名としての扶余

 なお、民族名、国名としての扶余(扶餘)は高句麗と同じくツングース系の貊人(はくじん)が、前2世紀ごろ中国東北部の松花江中流に建国したもので、1~3世紀ごろ、鮮卑および高句麗に対抗する勢力となった。494年に同じツングース系の勿吉(モッキツ)に滅ぼされた(勿吉は6世紀半ばに高句麗に滅ぼされる)。百済はその扶余の後裔と称しており、最後の都の名も扶余とした。

Episode 百済滅亡の時の悲劇

 扶余の町の西北、泗沘城跡があり、その端は絶壁になっていて白馬江といわれる絶景である。「百済の王宮に仕えていた三千の官女は、王宮が焼かれたとき、敵にとらえられて辱めをうけたくないと、この絶壁から白馬江に身を投じた。その絶壁をその後の人は「落花巖」と名づけた。官女を花にたとえたのである。なぜか、滅んだ百済にはそのような悲しくも華麗なイメージが漂う。強大国のイメージに乏しいからであろうか」<金両基『物語韓国の歴史』1989 中公新書 p.174>
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3章2節 オ.周辺諸国の形成
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金両基『物語韓国の歴史』
1989 中公新書