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高句麗

3~7世紀、ツングース系の民族が満州から北朝鮮にかけて建国した国家。隋の煬帝の遠征軍を撃退し、唐の攻勢にも激しく抵抗したが、668年に滅亡した。

 中国東北部(満州)から朝鮮半島北部にかけて活動していたツングース系の半農半狩猟の貊人(はくじん)が鴨緑江流域に建国した。朝鮮最古の歴史書『三国史記』によると、同じく貊人の国で北方いた扶余の王族が、前37年に建国したとされている。これは史実としては疑わしいが、前1世紀の中ごろ、漢の置いた四郡の一つ玄菟郡が衰えたことによって、東北地方の遊牧系民族の一つであった高句麗もこの頃自立したと考えられる。

高句麗の建国

 部族連合国家であった高句麗は、後漢末に遼東の太守公孫氏に追われて、209年、鴨緑江流域に移り、その北岸に丸都城を築いた。これが実質的な建国である。中国が三国時代の分裂期にはいると勢力を強め、313年に楽浪郡を滅ぼし、427年には都を平壌に移し、現在の中国東北地方から北朝鮮に及ぶ大国となって繁栄した。特に広開土王の時は領土を南方に広げ、朝鮮半島に進出した倭人(倭国)とも戦った。

隋の煬帝の遠征軍を撃退

その勢力は中国の遼東半島にも及び、北西の突厥とともに中国の王朝にとって脅威となったので、隋の煬帝は数度にわたって高句麗遠征を行ったが、いずれも失敗し、その滅亡の一因となった。

唐の攻勢を受け滅亡

 次いで唐の太宗も高句麗遠征の軍を起こし、百済と結んで高句麗を挟撃したが、この時も高句麗によって撃退された。しかし、国力を充実させた唐は、高宗の時、再び高句麗遠征を企て、660年に名将蘇定方、劉仁軌らを派遣した。朝鮮半島では新羅が唐と結び、まず百済をほろぼし、663年に唐・新羅連合軍は百済の復興を支援する日本を白村江の戦いで破り、日本の朝鮮半島での足場も失われた。その後、高句麗に内紛が起こったこともあって、唐は将軍李勣(りせき)を派遣、唐軍は668年に平壌を占領して高句麗を滅ぼした。唐は平城に安東都護府を置いて羈縻政策で統治した。

高句麗文化の影響

 4~5世紀に高句麗が強大になったことは、東アジアの中での日本国家の形勢に大きな影響を与えた。高句麗時代の古墳に見られる壁画と日本の高松塚古墳(7~8世紀初頭)との類似性が注目されている。なお、貊族と同じツングース系の靺鞨は、「高句麗の遺民」と称して698年にほぼ高句麗と同じ領域に渤海国を建国した。

Episode 高句麗は中国?朝鮮?

 2004年8月6日の『朝日新聞』記事によると、「高句麗」をめぐって韓国政府が中国に抗議したという。最近中国が「高句麗は中国の一地方政権だった」という宣伝を強めたためという。高句麗は5世紀の最盛期には現在の中国東北部から韓国の北部までを治め、韓国としては「かつての広大な領土に誇りを感じさせる」存在である。現在も中国東北部には多数の朝鮮系民族が居住している。中国が高句麗は中国の一部という歴史解釈を強調するのは、中国に住む朝鮮族が半島との一体感を強め、独立運動に発展することを恐れているのではないか、という見方も出ている。韓国の盧武鉉政権は「歴史の再評価」に踏み出し、日本の植民地統治下の親日派を糾弾する法律を制定しようとしており、その手前もあって中国にも強気で抗議しなければならなくなっているという。アジアのナショナリズムが変な方に行かなければいいがと心配される動きである。
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ノートの参照
3章2節 オ.周辺諸国の形成