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百済

朝鮮の三国時代の国家の一つ。半島南西部にあった。中国南朝とも外交関係をもち、古代日本との関係も深い。660年、唐・新羅の連合軍によって滅ぼされた。

 345年頃、朝鮮三韓のひとつ、馬韓の地の50余国を伯済(はくさい)が統一した。高句麗新羅とともに朝鮮の三国時代を形成し、互いに抗争した。都は漢城(当初は慰礼城。現在のソウル)。後に熊津(ゆうしん、現在の公州)、さらに泗沘(サビ、しび。現在の扶余)に移した。百済の三つの都城跡、漢城・公州・扶余はいずれも「百済歴史遺跡地区」として世界遺産に登録されている。
参考 百済の読み方 百済は日本では“くだら”と読まれることが多いが、クダラとは「大村」を意味する朝鮮の古語を充てた訓読であり、国名としては音読して“ヒャクサイ”とするのが正しい。朝鮮語では“Paekche ペクチェ”(または“ベクチェ”)といっている。

参考 百済の建国神話

 高句麗の始祖朱蒙(東明王)の次男の温祚(オンジョ)は都の卒本扶余を離れ、2年をかけて漢江上流の慰礼城を築き、付き随った十人の家臣にちなんで十済とい小さな国を建てた。徐々に国を大きくし、やがて伯済となり、周辺の馬韓の諸国を平定して大国になった時、十の十倍にして百済と称するようになった、という。この神話によれば百済も高句麗と同じ、扶余の後身ということになるが、別伝もあり、もとより史実では無い。

馬韓を統一

 漢江以南の地には小国が分立していた韓民族のうち、馬韓と言われていたが、その一国であった伯済が次第に有力となった。314年、高句麗と協力して帯方郡を滅ぼし、韓民族の自立を可能にして、馬韓諸国を統一し国号を百済とした。
日本との関係 七支刀 奈良の石上(いそのかみ)神宮に所蔵される、不思議な形をした七支刀に銘文があり、それは古代の百済と大和政権の関係を伝えるものであることが判った。七支刀は現在、国宝に指定されている。そこには次のような分を読み取ることが出来る。
(表)泰和四年五月十六日丙午正陽造百練鉄七支刀□辟百兵宜供供王□□□□□
(裏)先世以来未有此刀百済王世子奇生聖音故為倭王旨造伝示後世
 一般的な解釈は、泰和4年(369年)に造られた七支刀を百済王世子(太子)が倭王に贈ったものであるとされる。これは『日本書紀』神功皇后紀52年9月条に百済の使者が「七枝刀」などを献上した記事に対応しており、369年にすでに百済と大和朝廷の間に国交があったことを示している。この年代が正しければ、百済は近肖古王の時代であり、急速に力をつけ、高句麗とも対抗しようという時であり、北上を控え、背後の日本(大和朝廷)との関係はよくしておく必要があったことが考えられる。

東アジアの大国に

 371年、百済の近肖古王はみずから3万の兵を率いて北上し、高句麗平壌城を襲撃、高句麗王故国原王は流れ矢にあたって戦死した。百済軍が高句麗を破り平壌を占領したことは、それまで無名だった百済を一気に東アジア国際社会にその存在を認めさせることになり、翌年には中国の東晋に遣使すると、東晋皇帝より鎮東将軍領楽浪太守の号を与えた。これによって百済は中国王朝の冊封体制に入り、その後の南朝諸王朝とも関係を維持してその地位を安定させた。371年には高句麗の来襲に備えて都を漢城(南漢山城)に移した。また近肖古王は中国から文字を取り入れ、初めて記録を残すようにした。384年には東晋から僧が来て、仏教が伝来した。

三国時代の一国

 このころ、辰韓を統一した新羅も国力を充実させ、中国王朝との冊封関係を結び、朝鮮は高句麗・百済・新羅の三国時代時代となる。弁韓の地はなおも小国分立の状態が続いていたため、百済と新羅のその地を巡る対立が続いたので、百済は、日本をそのころ統一した大和政権と結び、倭の五王といわれる大和政権の大王たちも、中国の南朝への遣使を行い、活発な東アジア外交が展開された。

高句麗広開土王の南下

 高句麗広開土王が即位、広開土王碑によれば、396年から大規模な南下を開始すると、百済は倭の援軍を得て戦ったが、結局、平壌一帯を奪い返され、次の高句麗の長寿王の時も脅威にさらされた。475年には長寿王自ら3万の兵を率いて百済の漢城を攻め、百済の蓋鹵王は捕らえられてしまい、百済は事実上、滅亡した。
 百済の王室の一部は都を南方の熊津(ゆうしん、ウンジン、現在の公州)に移し、再起を図った。まず新羅との関係を修復して高句麗に共同であたる態勢を作ってその南下を防ぎ、南の加羅方面にも進出した。
武寧王陵内部

武寧王内部 トリップアドバイザー提供

武寧王陵の発見 1971年、百済の旧都熊津である公州市近郊で、偶然、全く盗掘されていない古墳が発見され、美しく整備された玄室から多くの金製品などが見つかり、世界を驚かせた。合わせて墓誌も出土し、百済の第25代の武寧王の墓であることが判った。武寧王(在位502~523)は、日本に仏教を伝えたという聖王(聖明王)の父にあたる。この発見で高句麗に敗れて熊津に遷都した百済が、6世紀初めには復興し、高い文化を有していたことが判った。武寧王陵は、周辺の宋山里古墳群とともに百済歴史遺跡地区として世界遺産に登録されている(2015年)。
 また武寧王は513年に日本に五経博士として段楊爾(だんように)を派遣している。これ以降、五経博士が交代で日本に赴いており、日本への儒学の伝来はこの時とされている。

仏教文化、栄える

 百済は、中国の南朝のを通して仏教を取り入れた。384年が百済への仏教伝来の年とされている。朝鮮の仏教は、6世紀の百済の聖王(日本書紀では聖明王、在位523~554)によって篤く保護され、まず百済に仏教文化が開花した。
日本の仏教伝来 百済の聖王は倭(大和政権)に対して、仏教の経典などの提供を申し入れた。これが538年の日本への仏教伝来であるが、実はこの時、百済は北方の高句麗と東方の新羅から圧迫され、危機に陥っていた。そのため倭に救援を要請したののであり、その代償として倭に対して最新の文化を提供しようと申し出たのだった(仏教伝来の年は552年説もある)。
 新羅の圧迫に窮した聖王は都熊津城から、錦江の下流の泗沘城(しび、サビ、現在の扶余)に移し、国号を南扶餘としなければならなかった。このように日本への仏教伝来は百済を通じて、緊迫した外交情勢のもとで行われたのであった。その聖王は554年に管山城での新羅の真興王との戦いで戦死した。

百済の衰退

 百済は加羅諸国を介して日本(大和王権)の支援を受け、対新羅の戦いを続けたが、聖王の死後はさらに新羅の圧力が強まっていった。562年に百済と新羅の中間にあった加羅諸国を新羅に奪われ、加羅諸国と密接な関係を持っていた倭(大和朝廷)の朝鮮半島における拠点も失われたため、倭と協力関係にあった百済は次第に不利な状況になっていった。
 7世紀の初め、高句麗遠征で疲弊し、反乱が相次いで滅亡した。代わって登場したは中国の統一を進め、太宗は強大な権力を得た。太宗は百済の要請を受けて高句麗に出兵したが、この時も高句麗軍に敗れた。

百済の滅亡

 新羅の武烈王は百済に侵犯された領土の回復を唐の高宗に訴え、唐はその機会を捉えて新羅支援を口実に百済を討つことに決した。660年、唐は水陸合わせて13万の大軍を百済攻撃に向け、一方で新羅は金庾信を大将軍とする5万が出兵、百済は東西から挟撃された。百済兵は果敢に戦ったが、泗沘城は陥落、熊津城にいた最後の国王義慈王も降伏し、百済は滅亡した。
白村江の戦い 王族の一人扶餘豊(日本書紀では豊暲)は倭に人質としてきていたが、呼び戻され、百済の復興をめざして立ち、倭(大和王権)に救援を要請した。663年、錦江の河口の白江(日本書紀では白村江)に倭の援軍の水軍が到着、百済の水軍とともに唐・新羅連合の水軍と衝突した。この白村江の戦いは、百済・倭の連合軍の大敗となり、陸上でも両軍は戦ったがやはり唐・新羅連合軍の勝利となったため、百済の再興はならなかった。このとき、百済兵が多数、倭の軍船で日本に渡った。彼らは渡来人として、日本の文明形成に大きな役割を果たした。
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金両基
『物語韓国史』
1982 中公新書