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隋の高句麗遠征

煬帝が高句麗を征服を図ったが、激しい抵抗で失敗し、隋滅亡の一因となった。

高句麗遠征は、すでに文帝の時に始まり、百済の要請に応えたもの、突厥と高句麗が結ぶのをおそれたため、などの理由が挙げられている。口実としては、朝鮮三国のうち、新羅と百済は隋に朝貢し、冊封体制に入ったにもかかわらず、高句麗はそれに従わなかったからとされている。煬帝は612年~114年まで、3年連続で3回にわたり遠征軍を送ったが、高句麗の激しい抵抗に遭い、失敗した。遠征中に負担に反発した民衆反乱が各地に始まり、煬帝は都を脱出して揚州に逃れたが、殺害され隋は滅亡した。高句麗遠征及び、そのための物資輸送用に永済渠という運河をつくったことなどが農民の負担となり、隋の支配に対する反乱の勃発となった。
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第3章2節 ア.隋の統一と唐の隆盛