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武韋の禍

7世紀末~8世紀の初めの唐王朝で、皇后の則天武后と韋后が相次いで実権をにぎり政治の実権を握ったことを政治の混乱期として「武韋の禍」と呼んだ。

 武韋(ぶい)の禍(か)とは、の初期に武后(高宗の皇后)と韋后(中宗の皇后)の二代の皇后が実権を奪って政治が混乱したことをいう。唐の第三代皇帝高宗の皇后だった則天武后664年から「垂簾の政」を行い、実権を握っていたが、684年には子の中宗を廃位し弟の睿宗を立てた。さらに690年にはその睿宗も廃位し自ら皇帝として即位、国号を周(武周)とした。
 705年に則天武后が死去して、中宗が復位したが、こんどは中宗の皇后の韋后(いこう)が武后にならって実権を握ろうとし、710年に娘の安楽公主とはかって中宗を毒殺した。しかし、睿宗の子の李隆基(後の玄宗)が韋后と安楽公主らを殺害して、父の睿宗を復位させた。この武后と韋后という二代にわたり皇后が政治の実権を握ったことを、後の歴史書『唐書』や『資治通鑑』などを「禍=わざわい」ととらえ、「武韋の禍」と呼んでいるが、それは女性を蔑視する儒教な立場からの評価であり、正しいとは言えない。
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