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則天武后

唐の高宗の皇后であったが、664年に実権を握り、690年に国号を周に改め、中国史上、唯一の女性の皇帝となる。科挙官僚の登用など見るべき施策も多いが、一方で醜聞も多く、評価は二面的である。705年の死に伴い、国号は唐に復されたが、次の中宗の時には皇后の韋后が政治を乱し、そつ天部光と併せて「武韋の禍」ともいわれる。

 655年、高宗の皇后となった、高宗が病弱であったことから、664年から政治の実権を握って「垂簾の政」(背後の簾(すだれ)の中から皇后が皇帝を操って行う政治)を行った。則天武后は、唐王室の李一族など北朝以来の貴族勢力(関隴集団。長安付近に土着した鮮卑系貴族で、関隴とは陝西省・甘粛省一帯を言う。)を一掃した。高宗の死後、実子の中宗・睿宗を相次いで廃帝として、690年、自ら皇帝として即位、聖神皇帝と称し、国号を周(武周)に改め、都を洛陽として神都と改称した。中国史上、唯一の女帝(在位690~705年)である。

則天武后の政治

 則天武后は科挙制を強化(進士科の中心試験科目に詩賦を置き、官吏登用に文学的才能を重視した)し、官僚制を整備した。また律令制度の官職名を『周礼』を手本としたものに改めた。さらに自ら漢字を創作し、則天文字と称した(国を圀とするなど)。また仏教を崇敬し、官寺を大雲寺として保護したり、畜類の殺生や魚の捕獲を禁止したりしている。これらの改革は武周革命とも言われる。

則天武后の評価

 則天武后は太宗の「貞観の治」と玄宗の「開元の治」にはさまれた時代で、女性の身で政治を恣にしたとして非難される(『唐書』や『資治通鑑』などにおいて)が、その統治のもとでは農民反乱もなく、文化的にも龍門石窟寺院の建造など優れたものも見られ、律令制が維持されていた時代として評価されている。しかし、その権力が異常な権力欲によって反対派を次々と排除して成り立ったものであり、彼女の死後は韋后の専制という混乱が続き、玄宗の出現によってようやく安定することとなる。<布目潮渢・栗原益男『隋唐帝国』講談社学術文庫>
 現代中国の中学校歴史教科書では、「女帝武則天」の項目で、「武則天は皇帝となって、唐の太宗の生産発展の政策を継承して推進し、また多くの才能のある人を破格に抜擢した。」と評価が高く、「幼い時から聡明果断で、文学や歴史に精通し、14歳の時に宮中に入った。」と好意的である。ただし、悪政として、武氏一家を重用したこと、寺院を多数建て、崇仏を大いにほしいままにしたことなどで、民衆は深く苦しみを受けた、としている。<『入門中国の歴史-中国中学校歴史教科書』2001 明石書店 世界の教科書シリーズ p.318>

則天武后のスキャンダル

 最近は評価が高い則天武后だが、権力欲から来る競争相手の排除には、壮絶なものさえ感じさせる。その数多いスキャンダルの中から、その立后の経緯を見てみよう。
太宗の後宮から高宗の後宮へ 則天武后は、武氏の出身で、父の武士彠(ぶしかく)は山西省の商人で隋の煬帝と唐の高祖に仕え役人となった、高い地位の人ではなかった。彼女は14歳で太宗の後宮に入り、武照といわれ、寵愛を受けたが、子はなく、太宗がまもなく死去したため、若かったが先例の通り尼となった。皇帝となった太宗の子の高宗は、皇后の王氏をさしおき、蕭淑妃を愛していた。王皇后は高宗の蕭淑妃への愛情を妨害しようとして、尼となっていた武照を還俗させ、後宮に入れることにした。武照は皇太子だったころの高宗と密通しているとも噂されていた。こうして尼から還俗することになった武照は、頭髪がそろうのを待って高宗の後宮に入った。
皇后の地位を狙う 王皇后のもくろみどおり、高宗の寵愛は蕭淑妃から武照に移ったが、武照はすっかり高宗の心を捉え、今度は王皇后の立場が危うくなった。武照が男子を産んだのである。そのころから武照は皇后の地位を狙うようになり、ついに一策を案じた。ある日、武照の産んだ子を王皇后が見舞ったあと、急死した。武照はそれを王皇后が王子を殺したのだと高宗に訴えた。高宗は信じ込み、怒って王皇后を廃し、武照を皇后にすると言い出した。
流れを変えた一言 しかし、名門の出である王皇后に比べ、武照は低い地位の出身であり、しかも先帝の太宗の後宮にいた女性を子の高宗の皇后にするのは道徳的にも許されないとして高官たちは反対した。特に唐創業の功臣である長孫無忌や太宗に仕え書家としても有名な褚遂良らは言葉を尽くして阻止しようとした。武照にすっかり籠絡された高宗はあきらめず、何度も宮廷で会議を開いたが、そのうち、高句麗遠征などの功績で、当時武官として最も重んじられていた李勣(りせき)は、「これは陛下の家事でございます。外部のものの意見をお聞きになる必要はございますまい」と答えた。これで流れが決まり、武照の立后は国家の公事ではなく皇帝の私事として実現した。
 こうして皇后となると、高宗が病弱であったことから代わって政務に当たるようになり、「垂簾の政」を行い、実権を握る。それに対する良識派の批判も強かったが、彼女は次々と反対派を潰していく。そして高宗の死後は、実子の中宗と睿宗を相次いで廃帝にした経緯など、スリリングなスキャンダルが渦巻いていて、彼女の冷酷さには舌を巻く。<詳しくは外山軍治氏の『則天武后』(中公新書)で紹介されている。同書は1967年に刊行されたものだが、今でももっとも手頃な則天武后に関する参考書である。>

則天武后の歴史的背景

 唐王朝の成立を支えたのは、北魏以来の北朝の各王朝の軍事基盤であった関隴集団と言われる鮮卑系貴族であった。則天武后の立后を機会に、彼らの勢力は後退し、その皇帝としての統治の間に、科挙によって官僚となった実務派が台頭したことが指摘されている。

Episode 東大寺大仏のモデル

 中国で起こった仏教の宗派である華厳宗は、朝鮮を経て日本にも伝えられた。日本の華厳宗の総本山は奈良の東大寺であり、奈良の大仏といわれるのも正しくは「毘盧舎那仏」で華厳宗の本尊である。唐の高宗と皇后の武氏(後の則天武后)は、竜門に毘盧舎那仏の大仏造営を発願し、武后は自らの脂粉銭(お化粧代)二万貫を寄付し、大仏の顔は武后に似せて造られたという。恐らくこの時唐に留学していた玄昉はこの像を見ていたであろう。帰国後聖武天皇によって僧正に任じられた玄昉が光明皇后に大仏造営を進言したのかもしれない。いずれにせよ、大仏造営と諸国に国分寺を造る仏教政策は、則天武后を真似たものであった。<鎌田茂雄『仏教の来た道』講談社学術文庫 p.170>
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ノートの参照
3章3節 エ.唐の動揺
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外山軍治
『則天武后』
1966 中公新書