印刷 | 通常画面に戻る |

玄宗

唐王朝中期の皇帝。712年に即位し、開元の治で安定したが晩年は愛妃楊貴妃一族を重用し、政治が乱れ、755年の安史の乱をまねいた。

 の中興の祖といわれる皇帝。則天武后によって廃位されていた睿宗の皇子であったが、則天武后亡き後の政治の実権を握っていた中宗の皇后韋后とその一派を、710年にクーデタで倒し、父の睿宗を復位させ、いわゆる「武韋の禍」を収束した。

前半の開元の治

 712年、父から譲位されて皇帝となり、その後756年まで皇帝として在位した。翌713年、年号を開元とし、開元律令の制定など、律令政治の整備に努め、科挙による人材登用制をもとに「開元の治」と呼ばれる積極的な政治を行った。この741年までの開元年間の玄宗の統治は、唐初期の太宗の貞観の治となならぶ安定した時代となった。

Episode ポロの名手玄宗

 若い頃の玄宗は、スポーツと音楽を愛する人間的な皇帝であった。特にポロは得意で、兄弟たちと楽しんでいた。吐蕃の使節との試合でも4人で10人を相手にして勝ったという。ポロは馬に乗って行うホッケーで、イランを起源とし吐蕃を通じて唐に伝わり、流行していたという<石田幹之助『長安の春』東洋文庫 p.176,304>(山川出版社『詳説世界史』p.80の図を参照)。
 また玄宗は音楽にも優れており、みずから管弦楽器を演奏し、「皇帝梨園弟子」という楽団を作った。日本で歌舞伎界のことを梨園(りえん)というのはこれによるという。このように玄宗は人間的な魅力のあった皇帝なので、晩年に楊貴妃を溺愛して唐朝を傾けたにもかかわらず、人気が高い。<布目潮渢・栗原益男『隋唐帝国』p.145>

晩年の安史の乱

 玄宗はその前半には引き締まった政治を行い、開元の治と言われる善政の時代とされているが、晩年は次第に政治に関心が薄れ、それとともに近臣のなかに乱脈な行いが多くなった。特に楊貴妃を溺愛して政治を顧みず、その一族楊国忠が実権を握り、それに反発した節度使安禄山などの反乱である安史の乱755年に勃発し、唐王朝を動揺させることとなった。
印 刷
印刷画面へ